しょうちゃんの繰り言


理屈に合わぬこと

明治生まれの父がよく「理屈に合わん」と言って怒っていたのを思い出す。私の父は義務教育しか受けていなかったが、その後働きながら通信教育で学んだ経験もあったらしい。兄弟が多く、早くから家計を助けるため働いたそうだ。こういった例は当時としては珍しくなく、父の友人で高学歴の人はいなかった。大学卒が希少価値で、正に「嫁にやるなら学士様」の時代だったのだろう。高等教育には縁の無い人生でも、父は世の中の出来事には敏感だった。政治問題であれ、経済問題であれ、理屈に合わない事はひどく怒り、嫌っていた。

最近、事実の捏造から始まった新聞記事が32年ぶりに訂正された。ある大手の新聞社が根拠のない作り話を信じ、それを記事にしたのが元々の原因だった。訂正の機会は過去いくらでもあったし、他の報道機関やジャーナリストからもその間違いを度々指摘されていたが、それでもこの新聞社は今まで聞く耳を持たず自分達の非を認めなかった。

サンゴに傷を付けた程度の捏造ならレベルは低くても影響は少ないし、国や国民に対する直接の被害もない。ただ、ありもしない話を根拠に隣国に火を付け、深刻な国際問題の原因を作ったのは、この新聞社の確信犯的な意図が背景に窺える。国際的に日本と日本人の評価を陥れた元凶として、彼らの首尾は果たせたとしても大変な責任がまだ残っている。

今回の、あまりにも遅すぎた訂正記事の何処を読んでも自分達の誤りに対する謝罪の言葉は全く無く、問題の本質をすり替えた言い訳の羅列だった。聞けばクオリティー・ペーパー(一流新聞)として日本のインテリ層が好んでいる新聞だと言う。

一流新聞と日本のインテリが揃えば三文芝居の役者に不足はない。他のマスコミの指摘に長い間沈黙していたのはどういう理由があったのか落ちこぼれとしては興味が湧く。この質の悪い捏造記事を書いたのに訂正しない方も、又そういう新聞を読み続ける方も私には到底理解出来ない。私の父ならとっくに「理屈に合わん」と購読を止めていただろう。

残念ながらこれが日本の高等教育を受けた人達の実態である。政治家への批判は選んだ選挙民への批判でもある。大きな犯罪的間違いを看過した新聞社への批判は、分かっていて読み続けるその読者への批判でもある。一面トップの記事で嘘を重ねる新聞は、たとえ他の記事に見るべきものがあったとしても信頼性は大いに揺らぐ。個人でも、嘘を平気でつくような人間には他に長所があっても、どうしても人格そのものを疑い信用することが出来なくなる。

高等教育を受けた人間の劣化はこの一件からも垣間見る事が出来る。言論とは究極の知的作業で、特にマスコミにおける国際的ニュース種は、事実関係において正確を期さないと後の影響が大きい。この新聞社は今回の件に関する限り全てにおいて間違った選択をし、父の言葉を借りれば「話にならん程、理屈に合わん」という事になる。これは明治の父の表現としては最低評価の言葉だ。別の言葉で表せば知性の決定的欠如ということにもなる。言論で生きる人間が、言論を大事にしない最悪のサンプルだ。ここまでくれば知性の欠如と非難されても普通なら返す言葉も無いだろう。

この新聞社のOBには有能な言論人も多数居る事から、少なくとも最初から知性が欠如していたとは思えない。32年ぶりに訂正したのは最近知性が甦ったのかと思ったが、釈明の内容で判断する限り知性の欠如はやはり決定的だった。それで「言論人」をまだ標榜しているのだから笑って切り捨てるしかない。

今は亡き知人の政治家も、現総理と共に「NHKの番組制作に圧力を掛けた」、と全く根拠の無い記事をこの新聞社の記者に捏造されたが、未だに訂正も謝罪も無い。知人の政治家は生前、この記事を全面否定した上で「反論があるなら出てきて下さい。いつでも真相究明に応じます」と呼びかけ、「何も応えないのは卑怯だ」とも言っていた。それでも書いた記者はもとより会社を含め何の反応も無かった。当のNHKも否定している事を、それでもこの新聞社は頑なに沈黙を守って訂正の素振りさえ見せない。つまり結果として書いたものは正しいと主張しているのと同じだ。大人のルールでは批判した相手の全面否定に反論も出来ないのなら、一人前の顔をして公器の紙面を使うべきではない。そういった人間に記事を書かせたのは紛れもなく会社の責任で、もし黙認しているのであれば、世間では普通虚言の共犯者と看做される。この社には過去にも、こういった例が多過ぎる。随分前、テレビで彼の同僚が「良く知っていますが、そんな事(嘘)を書くような奴ではないのですけど」と擁護していた。書いた記事に当事者から反論が出ても、この程度の世間話で終わらせようとする体質が当時も窺えたが、今でも彼らは何も変わっていない。今更、「書いた事は正しかったが政治家の威光に黙らざるを得なかった」とは言って貰いたくない。

知り合いに困ったおばさん(老女)が居て、他人の事は支離滅裂に非難するが、当人への批判は絶対受け付け無かった。明らかな証拠があっても、証人が居てもおばさんは平然としていた。見事な困ったおばさんの典型だったが、この新聞社も困ったおばさんと本質は変わっていない。おばさんには周りが大変迷惑した覚えがある。なぜなら、ありもしない作り話を相手に告げ口し、互いに揉めるのを期待しているような風情があったからだ。今、考えるとそのおばさんは認知症がかなり進んでいたのかもしれない。可哀そうに最後は周りに人が居なくなった。いよいよどこかと似ている。

高校時代、漢文の教師が「人は最初に活字で読んだものを信じる傾向がある」と教えてくれた。50年以上も前の話だが、その時妙に納得した覚えがある。それ以来、何事にも少しは客観的に判断しようという心構えは持つようにしてきた。今で言う医者のセカンド・オピニオンにでも例えられるだろう。最初の医者の見立てを全て頭から信じる患者は、今日では世間でも少なくなっている。

新聞はかつて社会の木鐸と言われ、社会での不正や間違いを指摘し正す事が使命だった。政治権力を始め他の権力も監視し、チェックしてくれている筈だった。新聞記者は無冠の帝王とも言われ、広い視野からの監視役を務めていた。この構造が一部とは言え最近ではおかしくなっている。また新聞社の劣化は何も日本だけの現象ではなくなったようだ。日本に来ている海外特派員にもひどい記事を書いている記者はいる。その原因は自分達で検証する事も無く、提携先の日本の新聞社の論説や記事をそのまま本国に送っている仕組みにある。限られた現象とは言えマスコミにサラリーマンは居るが、いよいよジャーナリストは世界的に少なくなっているようだ。こういった表現は一般のサラリーマンに、とても失礼なことは充分承知しているが許して頂きたい。

これだけ高等教育を受けた人間が増え、我々の時代よりはるかに情報も多く勉強時間も長くなっているのに、最近の各界での判断力には疑問に思う事が多い。

素朴に生きた父達の教えの方が遥かに価値あるものに思えてくる。単純な表現で「理屈に合わん」と言って切り捨てていた寡黙な父の存在感が私の中では最近ますます際立ってきている。これは私の感傷的な思い出話ではない。学校で多くを学べなかった父が実社会から学んだ知恵に教えられることが多かったからだ。そして父の言葉には無駄が無かった。

何を学ぼうと言論の基本が分かってない記者は社会の木鐸ではあり得ない。まして事実に基づかない記事は新聞の性質上影響が大きいだけにむしろ有害でさえある。この言論の基本さえ心得ないジャーナリストはこの新聞社だけではない。先日もテレビで集団的自衛権について討論している際、新聞記者上がりの著名なジャーナリストが「仮定の話には答えられない」と言ったその口で「XXは日本を攻めてこない」と断言していた。国の防衛は常にあらゆる可能性を想定して準備をし、対策を練っている。これは全て可能性の高い仮定の話をベースにしている事に彼は気が付いてない。「XXは攻めてこない」という発言もあくまで仮定の話だ。今後の見通しは現実の話でなく、実現するまでは仮定の話として普通なら区別している。つまり、将来への備えは全てが仮定の話の上に成り立っている。自己矛盾した発言に気が付かない程度の頭でも、新聞記者として彼は何故だか有名になった。これもテレビのお陰だろう。一流大学を出て、一流新聞社の出身でもこのレベルは別に珍しくない。

毎回指摘しているが学ぶ事が形骸化し、そこでの成績と入社(入省)資格さえ取れば一生通用するところに問題がある。官庁のキャリアー組は入省時の成績が一生付いて回るそうだ。盛んに世の中の不公平を非難しているテレビ局も、実際に番組を制作している下請け会社の社員より倍以上の給料がそこの社員に払われていると聞いたことがある。ちなみに公務員の給料は現在一般納税者平均賃金の約1.5倍のレベルらしい。

川の向こうの安全地帯に入り込めば能力に関係なく一生安泰で、反対側に要る限り将来の展望が不安だという世界があれば、誰しも何とかして安全地帯へ渡る事を考えるだろう。ごく単純化して表せば、これは今の日本の縮図だとも言える。一流大学・一流新聞社という川向こうの安全地帯から犯罪に手を染めない限り追放されないとすれば、ましてインテリを含め世の中が一目置いている存在ならば、彼らは少々理屈に合わなくても平気な顔で生きておられる。判断の基準が根本的に間違っているため起きる現象だ。

間違った事や、おかしな事、つまり父の言う「理屈に合わん」事が安全地帯でまかり通り、反対側では報われない生活を強いられているとすれば、国としては不安定で不幸なことだ。一生を保障されている公務員が何故に納税者より多くの収入が必要なのだろう。車を製造するには関連の下請け企業が必要だが、何故下請け企業は安い給料で働かなくてはいけないのだろう。土地の価値は国民全体で高めたが、何故利益は地主だけに還元されるのだろう。安全地帯から集めた金で安全地帯の住人に金を貸すのは分かるが、銀行は全地域から預金を集め、主に安全地帯に貸し出している。考えなければならない問題はわが国にはまだまだ幾らでもある。

ジャーナリズムは世の中の矛盾や不公平に目を向け、各界や各産業・商業分野で理屈に合わない事を指摘し、正すのが本来の役目ではないだろうか。社会に影響の大きい政治は当然厳しい目で判断しなければならない。同じように大企業も社会的責任が伴い、そこにも厳しい目が必要だろう。税金で運用されている役所もその対象に入る。司法の独立は守られるべきだが、権力を持つ組織には常に監視が必要だ。こういた本来の役目を担うジャーナリズム界の人材を既存の教育システムで果たして育成することが可能なのだろうか。

全ての分野に必要とされているのは「人としての判断力」だ。漠然とした定義だが、これは単純に学校や成績だけでその能力を選別出来るものではない。人としての在り方が問われ、何が大事かという判断を常に求められている。そこでは本来、総合的な人間力が求められている。

社会に影響のある大企業がエゴの塊みたいな底の浅い利益追求だけに終われば、天下の公道を倉庫代わりに使って顰蹙を買ったり、経営がおかしくなった時下請けから「ザマ見ろ」と言われたりする。人としての判断力も人間力も疎かにした為の評価とも言える。

我々の先祖は高等教育を受けてなくても、もっと志が高く理屈に合わない事には毅然と対応していた事実がつい最近まであった。影響力の大きい金融機関も含め、各分野で自分達の本来の役目は何かを理屈に合った方法で考え直して欲しいものだ。本来ならそこでのチェック機能をジャーナリストは果たすべきだろう。新聞やジャーナリストの出番はまだ無尽蔵にある。どうか目的と方法を間違えないで欲しい。

ちなみに父も私も川向こうの安全地帯には未だに縁が無い。こういった人間が何か言うと世間では貧乏人のひがみと言うらしい。

正にその通りだが、何か?

平成26年9月8日

草野章二