しょうちゃんの繰り言


年相応

 “いい歳をして”、”年甲斐もなく”、“歳を考えろ”等々、年齢に相応しくない所業があると、こういった非難の声が挙がる。ただ、歳に相応しくない想定以上の働きをすると逆に賞賛の声が挙がる。いったいこういう基準はどこから出て来たのだろうか。

 前にも何度か触れたが、幼児期の脳は偉大な働きをしている事が今では分かってきた。一つには、この時代の脳は言葉を自然に覚える特別な能力がある。但し、この能力は歳と共に次第に衰える事も分かっている。どこの国で生まれても幼児は日常耳にする言葉を覚え、やがて何不自由なく操る事が出来るようになる。こういった自然に起きる現象に我々はあまり注意を払わないが、実はこの幼児期の脳は大変な働きをやっている。耳に何度も聞く食べ物の名前や、人の名前くらいなら覚えることはあり得ると思うが、単語が意味を持つ文章になり、やがて観念的な事を表現する言葉まで理解出来るようになる。子供が言葉を覚え、話し始めるまでのプロセスを思い出せばそのスピードが如何に早いか納得するだろう。これは成人が4年や5年努力しても成し得る事ではない。ただしこの子供が喋るという能力を我々は極当然のことだと認識していて、習得に少々の遅い、早いといった個人差があっても我が子が特別の才能を持っているから言葉を話すと理解している親はいないだろう。つまりこの能力は生まれつき、どの子も備えている。

 英国に居る我が孫娘も、言葉を覚え単語で対応する時期が過ぎると短い文章で表現するようになり、4歳の時にはスカイプで「綾香はマンキー・ベビー(猿の赤ちゃん)なの?」と言う私のからかいに反応して怒ってスカイプのスィッチを黙って切ってしまった。すぐに母親に言いつけ、次回のスカイプでの会話は私の「ごめんなさい」から始まってやっと機嫌を直した。こんな反応は我が家の孫娘に限った事ではない筈だ。いずこでも見られる幼児の反応だろう。生まれてきて、たった4年間という歳月で幼児は言葉の意味を理解し、自分をからかう存在に否定的な反応を示せるようになる。

 余談になるが、孫娘は5歳になったら地元(英国)の小学校にレセプション(Reception)として入学し、次の年からは一年生と呼ばれ六年生を終えて卒業する。従って全部で7年間が小学校の義務教育として子供達に無料で提供されている。ちなみに孫娘が通う小学校はレセプションに入る前の4歳時には午前、若しくは午後3時間程度、日本で言う保育園としての役目を勤める施設、ナーサリー(Nursery)が学内に整っていてここでも無料で預かってくれるらしい。義務ではないが殆どの親は通わせるという話だ。孫娘は現在レセプションで今年の9月から一年生になる。ちなみに、イギリスではキンダガーデン(幼稚園)という呼び方はしないらしい。

 幼児期の年相応の能力とは、実は偉大な力を秘めていて、通常その時期でしか発揮されないが、幼児は親の想像以上に言葉を含め多くの事を学んでいる。旺盛な好奇心はその表れで、目につく新しいものには何でも興味を示す。彼等は知る事に貪欲で、幼児期の脳はこの働きが無いと役には立たないのだろう。自然の見事な摂理を見る思いがする。

 その一方で、後天的に学ぶ語学には苦労した覚えが誰もあることだろう。それでも学校で学ぶ語学には限界があり、学んだ外国語でのテレビや映画を何の苦労もなく理解出来る人は日本国内だけで教育を受けた程度では稀だろう。それは決して我々日本人の知能が劣っているからではない。マスター出来るかどうかは、日常的に触れる頻度と学習目的の重要性が大きな鍵を握っている。単に言葉を覚えるという目的なら幼児期からその環境に居れば自然と覚えられるだろうが、覚えたからと言って何か特別な意味がある訳ではない。英国人は外国語が苦手だと言われていたが、それは外国語を学ぶ必要性が歴史的にあまり無かったからだろう。彼等は世界のどこでも英語で通用した。また、フランス人は知っていても英語で話そうとはしなかった。このあたりの話になると国の世界における立ち位置と深く結びついているので、簡単に理解出来る話ではなくなる。

 現在ではパソコンが瞬時に世界と繋がり、英語が出来れば必要な海外の情報も机の上で簡単に得られ、これで世界のおおよそのことは分かるだろう。それゆえ今の方法で利用出来るパソコンの利便性は、巨大なマーケットになる可能性を充分に秘めていたし、そこに目を付けて開発に参加した人達は莫大な利益と利権を確保する事が出来た。そしてパソコンの世界は今でも進化している。ただ、この世界でも最初に飛びついたのは世間が分かった大人ではなく、多くは新進の気性に富んだ若者達だった。人間としての未熟さはこの世界では問われることはない。むしろその応用の可能性を求め続けて挑戦する人達に、富という現代人間社会の絶対権威の褒章が与えられた。ここでも若者の持つ潜在能力を評価するには、彼等が成長時に年相応の能力を発揮していると捉える方が正しい認識のような気がする。

 へそ曲がりの私から言わせて貰えば、私が使用しているパソコンはまだ不完全な商品で、その利便性は認めても使い勝手が悪く、すぐにニュー・モデルへの買い替えを要求される代物に過ぎない。この20年弱の我が家のパソコンの歴史でも、既に5台以上の買い替えを余儀なくされている。こんな電気製品を売り出せば、メーカは消費者からクレームの嵐だろうが、パソコンに限ってはそんな声が消費者から上がることはない。自動車を消費者に売り出して、その操作法を熟知してないと運転出来ないとすれば、そしてしょっちゅう故障し、その操作方法が新型と共に変われば普通消費者は黙っていないだろう。頭の固い古稀の年代から判断すれば、こういった意見しか言えない。これがまた、年配者の年相応な判断力ということになる。

 未知の言葉を覚えたり、新しい情報機器の開発や活用を考えたりするのはどうも人生を経験してきた年配者には向かないようだ。ただ、彼らに期待されているのは経験から生みだされた生きるための知恵ではなかろうか。人生は必ずしも二者択一の方式で物事を割り切って選択したり、決断したりするには妥当でない事がある。人生が未経験な若者には的確な判断が難しい事が多い。つまり、年配者の知恵とは自らの人生経験から学んだ判断力に他ならない。それをわきまえず馬鹿な事をすると冒頭の罵声「年甲斐もなく」が浴びせられることになる。年配者の脳は新しいものへの取り組みには向かなくなっていて、蓄積された知識で判断する事に長けてくるのだろう。

 ギリシャ神話に出てくるスフィンクスが旅人に出した「朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足になるのは?」という問題がある。それは「人間」だと正解して旅人を苦しめたそのスフィンクスは退治された。人間は、幼年期は四本足で歩き、青年期は二本足で歩き、老年期は杖をついて歩くからだ。この簡単な区分で判断しても、人間がその時の必要性に応じて能力が発揮出来るように、その脳に役目が振り分けられたのだろう。

 四本足の赤ちゃんの脳は、実は我々の想像もつかないスピードで言葉を覚えている。動物で唯一言葉を持つ人間は、そのコミュニケーション能力は他の動物と比較出来ない程の差がある。他の動物では発声出来てもその声帯の構造から言葉にはならないらしい。インコやオウム・九官鳥が人の言葉を喋るのはどう説明が付くのか私には分からないが、発声のメカニズムは人間と同じではないようだ。ただ、習性的に物真似が得意であっても、彼等は意味のある言葉として人の言葉を発している訳ではない。

 前にも触れたことがあるが、自然のままでも人は言葉を覚え互いに会話することは出来るようになる。しかし、字を書いたり、読んだりすることは自然には習得出来ない。計算もそうだ。足し算、引き算、掛け算等々は字と同じで後天的に学ばなければ活用出来ない。日本の寺子屋の基礎教育で「読み・書き・ソロバン」を教えたのは、人間社会を円滑に運営するための基本的な技能になるからだ。我らが先人は経験則的にそのことを良く理解していた。日本民族が開国前に既に国際水準以上のレヴェルに一般庶民が達していたのは、世界でも類を見ない先祖の先見性によるものと言える。

 子供が言葉を覚え、字を覚え、そして計算が出来るようになるのは彼等の脳が学ぶに相応しい時期に教育し、指導しているからに他ならない。それでも脳の特性が解明されるにつれて、進化した教育法が将来出てくる可能性もある。大人の単なる先入観で子供の限界を決める必要はない。まして教育の内容と方向性に関してはまだ大いに検討の余地があるだろう。また、その学ぶ目的も大いに議論が欲しいとこだ。現在の、一律の方法と一律の選別が教育を陳腐なものにしている事に早く気が付いて欲しい。

 出来上がった社会の仕組みに閉塞性が生まれるのはある程度止むを得ない面があったとしても、少し考えれば分かるような事でも硬直した扱いしか出来ない組織は幾らでもある。出来上がったものに従属するのも人間の本性かもしれないが、おかしな事は変えればいいだけのことで、単純なマニュアル化による決まり切った対応は底の浅い文化しか形成出来ない。目先の利便性や心地良さを求めて改良されても限界はすぐにくる。学ぶ時に目的が何かをはっきり理解していれば少しは変化が出てくるかもしれない。

 社会で指導的立場に居る人達に、どうしても受け入れられないような振る舞いをする人がいる。彼等の特徴は、自分の利益・自社の利益を最優先させ、企業の社会的責任を放棄しているような姿勢にある。根底に競争があり、生き延びるという大命題があったとしても、社会は全て他との繋がり、今の流行りの言葉で表せば絆、が存在する。こういった社会の仕組みを理解して、世間の狭いリーダー達も年相応の分別が出来る事を願うだけだ。

 車社会の運転マナーを良くするには、プロの運転手が模範を示す事が最良だという意見を聞いた事がある。バス・トラック・タクシー等々、運転にプロとして従事する人が手本を示せば確かに一般のマナーも向上するだろう。誰かの犠牲の上でなお儲かろうとする姿勢では碌な部下は育たないだろうし、社会との絆なんて絵に描いた餅になってしまうだろう。互いに必要とされているから存在する事を忘れないだけでも変わる可能性が出てくる。

 好奇心に溢れていた少年時代には自分だけ良ければいいという発想はあまり無かった筈だ。夢を持って自分が挑戦した時代を思い出すなら、次世代の子供達にも同じ経験をさせ、それが将来のより良き社会に結びつくよう我々は準備してやる義務がある。平凡な事だが年相応の判断とは、こういった境地に行き着かないと良き伝統として次の世代に繋ぐことは出来ないだろう。

 生きる目的と価値ある生き方を、そろそろ考えてもいい頃ではなかろうか。先導する誰かが模範運転手にならなければ、いつまでも品の無い競い合いや、手前勝手な割り込み運転は無くならないだろう。教育の成果が現れないのは、模範運転手を育てようとしないせいではなかろうか。運転技術より今はマナーが必要とされている時代に思える。

年相応の判断と取って貰えれば有難い。

平成27年1月29日

草野章二