しょうちゃんの繰り言


大人の気遣い

人間、誰しも未熟なうちは多かれ少なかれ、知らない間に他人を不愉快な思いにさせている事がある。それはいたって単純な理由で、若い時代の表現や発言は他人の事を慮る余裕がないし、あまり気にもしないからだ。若気の至りとして冷や汗をかくのは、社会に出て幾らか物事の判断が出来る年齢に達してからのことが多い。ある意味成長過程でのエピソードとしてある程度の無作法は見逃されているようだ。社会的利害の絡まない発展途上中の学生時代には、むしろこういったことが起きるのは当たり前で、後になっての冷や汗はお互い様だろう。大人の気遣いにはまだ思い至らない訓練の時代だ。

社会に出てからの経験として、客筋に卑屈な程頭を下げる上司が部下に向かって全く違う顔を見せると、その人の人格を疑う事さえある。残念ながらこういった光景は何処でも見られ、誰でも嫌というほど経験してきた事だろう。一方、安心して叩ける相手には容赦しない人もいる。その立場の優位性は、上司である、客筋にあたる、年配(先輩)である、金を払う側に居る、といった極めて判り易い図式で説明がつく。典型的な単純人間だが、自分の事を含めてこのケースが世間では一番多いのではないかと思っている。強面で通っているベテラン社員にこの傾向が良く見られるが、上司にはその頭は必要以上に下がっている事が多い。部下から馬鹿にされる典型的なケースだ。別な見方をすれば彼等はいい歳をしていても未熟なままなのだろう。大人になりきれない人間は何処にでも居る。

かつて赤坂の料亭で下足番をしていた男性が随分前に暴露本を出版した。その中で現在大臣を務めている国会議員が槍玉に上げられていて、先輩議員に下げた頭と反比例して料亭の従業員にはそっくり返っていた態度が糾弾されていた。こういったエピソードは何故か政治家に多い。人の目に触れる商売の宿命だろう。中には誤解も曲解もあるだろうから、そのまま受け止める必要は無いが、商売柄知名度の高い人達は心した方がいいだろう。

思えばオリンピック招致成功ではしゃいでいた当時の東京都知事のその後は、今では誰も話題にもしなくなった。金に絡む不祥事が明るみに出て以来、聞こえてきたのはあらゆる所での頭(づ)の高さゆえの不評の数々だった。頭ごなしの部下に対する叱責は恨みを買っただけで反発以上の反応はなかった。スキャンダル発覚後、彼を庇う部下が一人も出なかった典型的な因果応報の例ではないだろうか。

東日本大震災時の首相の対応にも全く同じ様な反発が後に起きた。一方的に怒鳴りまくる姿は時折テレビでも垣間見られたが、相応しくない人間が相応しくない場所(地位)に居た為の喜劇(悲劇)だろう。彼らに多くを期待するのは最初から無理があり、役目を適切に処理出来なかったのは選んだ都民・国民にも責任がある。

世間には他への優位性をことさら誇示したがる人も居る。もっと言えばこれは誰しもが持つ人間の特性かもしれない。先祖自慢・学歴自慢・経歴自慢・家作自慢・嫁自慢・子供自慢・孫自慢・車自慢・筋肉自慢と連ねていけばきりが無く、そのうちの幾つかには自分にも心当たりがある。人間は幾つになっても内なる本性には逆らえないのかもしれない。こういった傾向の強い人間が上司に居るとまともな部下が育つとは思えない。特に学歴自慢が蔓延した職場環境では、正常な判断の目が養われるのは難しいことだろう。

また、普段では欠点の多い人ほど愛される事が多いが、それでもその基本は他人を不愉快にさせない事だ。目から鼻へ抜けるような人間は尊敬される事はあっても愛される事はあまりないようだ。逆にやる事なすことドジなことばかりだが愛される人もいる。考えてみれば、ペットとの会話は不可能でも時として女房より相性がいいことがある。逆に、亭主には癒されないがペットには癒される女房も多いに違いない。理屈が多く、間違いが少ない人間は残念ながら愛される率は低い。現代の軽いのりが持て囃される風潮では、まともで真面目であればあるほど敬遠されるようだ。人間とは極めて厄介な動物だ。

2020年東京オリンピック招致の際、有名になった「おもてなし」という言葉は正に日本人の伝統的な気遣いを表現している。文化や伝統から生まれた心構えは単純な言葉の表現で括る事は難しく、「お・も・て・な・し」という、たった5文字の説明にはその数倍・数十倍の補足がなければ外国では真意は理解して貰えないだろう。我々の先祖が培った文化はそれだけ奥行きがある事をまず知らなければならない。西洋的合理性でマニュアル化出来る接客の概念には収まり切れないものを含んでいる。

ファジーと思える表現の中に隠された日本人の気遣いは、大げさに言えば合理性を超えた日本の哲学だと捉えても間違いないだろう。西洋流哲学では説明出来ない要素を含み、学問としての取組みには馴染まないかもしれないが、実用性に密着した文化・伝統の形而上的集大成だと思っている。「おもてなし」はもとより、「わび・さび」、「もったいない」、「座禅」等で表される精神はどれも外国語に直訳できる範疇の言葉ではない。その真髄を知るにはかなりの経験や修練を積まないと日本人でも正しく認識する事は難しいものもある。

英国人は男性全てがジェントルマンではない。ジェントルマンとして認めて貰うには、それなりの立ち振る舞いが要求される。利己的で自分の利害だけに敏感な人間は、彼の国では商売人としては成功出来てもジェントルマンの仲間には入れて貰えないだろう。根底には「武士は喰わねど高楊枝」のやせ我慢の精神が必要で、それを貫く覚悟が無ければジェントルマンの道は選ばない方がいいだろう。単に私利私欲の儘に行動する人間はどこでも疎まれる。品性とか徳に縁の無い人はそれなりの評価しか得られない。俗人からは「スノビッシュ“snobbish”」(鼻持ちならない・気取り屋)とからかわれる英国紳士には、かなりの心構えが無ければ紳士の道を一生貫き通す事は出来ないだろう。日本では「男はつらい」が、英国では「紳士もつらい」ようだ。

我々は誰しも根底に、より良いものへの憧れを持ち、それが行動の原動力になっていることが多い。富は、こういった人間の根源的な欲望を満足させるが故に人はこぞって求めている。富を手にするための手段には経験則から幾つものルールが出来た。略奪・強奪の類は当然現代では御法度で、オレオレ詐欺などはもっての他だ。つまり合法的な手段しか認められておらず、株でも内部情報を利用しての取引は禁止されている。ただ、富を求める中で展開されるドラマは決して爽やかなものばかりではない筈だ。合法か詐欺か判然としない取引さえまだ巷では横行している。そして利益至上主義の経済のあり方が多くの品(ひん)の無い問題を抱えているのも事実だ。より良いものへの憧れが実利的なものだけに終わらせると品はますます遠のく。

日本では、これだけ教育が普及し高学歴の人間が増えていても、社会は決して品のいい方向に向かってはいない。むしろ戦後教育とは縁の無い伝統的な世界に品ある大人の気遣いが残されているようだ。戦後の民主主義教育がどれ程の効果を上げているか是非専門家の意見を聞いてみたい。大人の気遣いはむしろ民主的ではない世界に残っているように思える。「格式の高い」という枕詞で語られる伝統芸能の世界や料亭に「おもてなし」の精神は今でも見られ、それは客や接する相手に対する心遣いが基本になっている。未熟な儘に人の上に立つと馬脚はすぐに現れる。この例はサラリーマンの世界で生きていればすぐ分かるだろう。また、お客様は神様だとして通り一遍の対応をしても心が通わなければ意味を成さないで、すぐに見透かされる。国際的に一流と言われている企業が、はたして一流の人間を揃え、一流の大人の振る舞いをしているか疑わしい。商人魂は逞しく育っても、品性を持って大人の気遣いをしている例は如何程あるのだろうか。

大人の対応とは大人同士でしか分からない作法で、学校で教える程度の内容では身に付くものではない。知識の集積より人としてのあり方が問われ、人としての振る舞いが一番大事なのだ。品も格も備えていなければ一人前とは看做されず、試験で得た資格などでは品にも格にも役立たない。古来精神性の高さが日本の伝統となり、あらゆる分野で継承されていた。しかし今日では一過性のペーパーテストが各分野でのパスポートとなり、優秀な人材を揃えている筈の一流企業でも情けない大人は幾らでも見る事が出来る。何か肝心なものを見過ごしてきた代償はいずれ払わざるを得なくなるだろう。

ほっとけば本能の儘に争う人間に秩序が出てきたのは、ジェントルマンに象徴される指導層の自己抑制の結果ではないだろうか。利にさといのは洋の東西を問わず人間の根源的な性向で、それが無秩序に拡大されれば争いの種は尽きないだろう。自己抑制や自己規制が普通に出来る人達はジェントルマンとして社会からも一目置かれている。損得の判断でなく、如何に生きるべきかという命題を常に意識している人達は社会には絶対必要で、国単位で他国から評価されるのも最後は国民の生き方にあるのではないだろうか。バックボーンになる人達の存在が社会を支え、国民に対して良き規範となった時、国が品性を持つ事が出来るのだろう。開国当時、諸外国から例外なく賞賛を浴びた日本人の礼儀正しさと節度のある物腰は我々が長い歴史の中から創り上げたもので、決して失ってはいけない財産だ。目先の利害で大きく曲げられた社会は決して永続性のあるものではない。我々日本人は開国早々訪れた海外の人たちの目を見張らせる国民性を創り上げていた。日本独自の文化は文明先進国を自負する西欧人を驚かせるに充分な成熟度を既に保っていたのだ。その当時、彼の国で礼儀や節度をわきまえて大人の気遣いが出来たのは一部の階層で、国民全体のレヴェルで考えれば日本には及ばなかった。

開国も人や物の交流も時代の流れの中では全て必然として受け入れても、日本が培った精神文化は誇りを持って保つべきで、少々の経済活動拡大の中でも失くしてはならない。

相手を慮らない生き方は大人から見れば未熟なままで、決して褒めらたことではなく、常に顰蹙を買っている事を忘れてはならない。よしんば上司でも、高学歴でも、資産家でもそれだけの事実で人が従う筈はない。

大人の気遣いは、マニュアルやカリキュラムに沿った平面的な学習で身に付くものではないのだろう。何度も繰り返すが、与えられたものを再現する能力だけでは到底身に付ける事は不可能だ。高学歴と試験の結果得た地位ではせいぜい自分より下だと看做した相手に高飛車に振舞う程度のマナーしか身に付かない。これは、全てとは言わないが霞ヶ関方面に出向いたハイヤーの運転手さんの感想を披露したまでだ。ただ、私の知っている友人はその例外のようだが。

生前「俺は誰が来ても作業服だが、M銀行の人が来た時はネクタイを締める」と嬉しそうに語っていた本田宗一郎を思い出す。志を持って事業を続けていて困った時、援けてくれた恩人を彼は終生忘れないでいた。大人が大人を認めた時代はつい最近まで日本にあった。

金勘定の前に人物を見極める訓練が必要なようだ。閉塞感が蔓延した社会では大人の気遣いも育つのは難しいように思える。

平成26年7月4日
草野章二