しょうちゃんの繰り言


8月9日以降
(後で知ったこと)

拙論「8月9日」で私の原爆体験を部分的に書いたが、当然経験した全てを述べた訳ではない。個人的体験の悲惨さや、生き延びた幸運を幾ら語ったとしても、それは単に断片的な自分史を残しているに過ぎない。歴史に偶然関わった者の目撃体験はそれなりの意味を持ってはいても、第三者から見れば個人的な記憶としての不確かな部分的証言にしか過ぎないと言う人もいるだろう。一方、実写フィルムが映し出す光景は、何度繰り返されてもその記録には寸分の違いも出てこない。フィルムは撮影者が対象をどう選んだかは別として、カメラを通して選んだ小数の現実を少なくともありのまま残してくれる。歴史として残るものは個人的体験であれ、実写フイルムであれ、どういう手段を取っても全ての正確なディテールを網羅してないし、そこには自ずとそれぞれの限界がある。通常我々が知る歴史は残念ながらそういった断片か、誰かが後に纏めたものである。それに、貴重な個人的体験も多くの場合、客観的な記録ではなくその個人を通しての主張(メッセージ)が含まれていることが多々あるだろう。それはまたそれで意味があり、その歴史の中で生きていた者の証言は、部分的とはいえ何ものにも代え難い重みを持って訴えるものがあるかもしれない。以下の感想はそういった理解の上で読んで頂ければ有難い。

原爆の悲惨さと影響力の大きさはその死者の数を並べても正確には伝わらないだろう。1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲は死者・行方不明10万人と言われている。戦争において世界最大規模の犠牲者を出した原因は、焼夷弾に拠る爆撃だった。木造家屋を爆風ではなく、火災で焼き尽くす計算された作戦が背後に見える。従って死者の多くは爆死ではなく、火災に拠る被害者だったのだ。当時の東京の人口は如何程だったか知らないが、 数百万人居たのは間違いないだろう。

一方、長崎の場合24万人の人口で、一瞬にして約7万人が即死し、1年以内にさらに7万人強が亡くなっている。つまり1年間に人口の半分以上が原爆で亡くなった事になる。悲惨さに他と比べて違いが有るとは言わないが、これらの数字から影響力の大きさには格段の差があることは理解して貰えるだろう。そしてさらに付け加えれば、放射線による二次被害で多くの長崎市民がその後も苦しめられることになった。

私は偶然にNHK長崎放送局が制作した「原爆復興〜立ち上がった長崎市民〜」という番組をつい最近再放送で見た。そこに描かれていたのは正に市民が原爆後に立ち上がった姿だった。恥ずかしいことに、出てきた関係者の名前は幾らか知ってはいても、描かれた正確な背景と事実関係はこの歳まで知らなかった。

爆心地に近い城山小学校は在校生の9割が原爆で亡くなり、終戦後、行政の判断により廃校がいったん決まったらしい。それに校区の城山地区も再開発計画は断念されたという。原爆により、その地域は75年間草木も生えないという行政の判断が背景にあったからだ。城山地区の町内会長・杉本亀吉氏が立ち上がり、学校の再建と住宅地の再開発を行政に強く迫り、若者の仲人を100組ほど買って出て開校・地域開発を民間の力で始めた感動的なドキュメンタリーだった。それに拠ると城山小学校開校やその地域の再開発が出来たのは行政の方針ではなく、彼の力だったことが窺える。

さらに、中部悦郎氏の音頭で民間の大長崎建設が設立され、もっぱら住宅・建物の再建にあたった。県や市が進駐軍の対応に忙殺され、市民の生活再建にまで手を伸ばす余裕が無かったからだ。いわば、進駐軍という戦勝国の絶対権威の前に長崎の役人は市の原爆被害からの再建より彼らの宿舎の手当てを最優先した。68年前戦争に負けた日本はそういう国だったし、またそういう時代だったのだろう。

半分以下になった人口でも市民は立ち上がり、見事に復興を遂げた。特筆すべきは行政に代り民間の力が結集されて事を成した事実があったことだ。当然行政もその公共的役目を果した事は間違いないだろうが、学校の再建・地域の再開発・住宅を含めた破壊された建造物の再構築に民間が主導した意味は大きい。

元々長崎は海外との交易のため開港されるまでは人口1800人の半農・半漁の地方の貧しい小さな村に過ぎなかった。1636年出島が完成し、海外との唯一の窓口になる前後から長崎は大きく発展した。一旗上げようと集まった人達が創った街で、代々殿様が支配していた地域ではない。こういった背景から、長崎市民のDNAにはお上に頼る遺伝子があまり無いのかもしれない。また、頼ったとしても終戦直後は何も出来なかっただろう。

壊滅的破壊と表現してもその深刻さは具体的に伝わって来ないが、市の人口が一年以内に半分以下になったという事実を知ると少しは理解して貰えるかもしれない。24万人規模で、これだけ過酷な歴史を背負った都市は世界にもあまり例を見ないのではないだろうか。

父が勤めた会社では爆心地に近いところに畑を借り、そこで薩摩芋や南瓜などを栽培した事を覚えている。当時の残留放射線がどの程度だったか知る由も無いし、市民には何の知識も無かった。小学校・中学校・高校は全て爆心地から1500メーター以内だった。過日高校の古稀の祝いに出席した際、物故者は1割だったことが分った。正確に言うと同期400名中42人が鬼籍に入っていた。例外なく全てが被爆者ではないが、殆どが原爆の洗礼を受けている。この1割という数字は正常の範囲なのか異常に高い数字なのかは知らない。

世の中が安定し、平和な時間が続くと人間はどうしても自立の気概に陰りが見えるようだ。パラサイト(寄生虫)と呼ばれる若者の存在は日本ではもう珍しい現象ではない。困難や飢えに直面した時、動物は生き延びる為の本能に目覚めあらゆる手を打つが、衣食に困ったことの無い世代は自分から工夫して生きる術を知らないし、挑戦さえ諦めているように見える。これは何も若者だけの現象ではない。生活保護の急激な増加は本当に必要な人が増えているのか、便乗しているのか峻別して欲しい。人にたかることがいかに人間として見苦しいかを知るべきだろう。手に入れた生活の安定と経済の余裕は飢え死にや貧困から来る破綻からは脱却出来たが、確実に国民の価値観を変えていったようだ。

日本では残念なことに「ごね得」という言葉も流行ったし、公共事業の度ににわか成金が生まれた。価値を生み出さない経済活動で、不労所得を何の疑問もなく手にするようになった。経済の物差しを使い、それが万能尺度の力を持った時、我々の中の価値観が確実に変わってきた。学ぶ事もその基本は自分の利益と結び付けることが当たり前になり、より良き社会的地位を得るための手段となった。人間の原動力が個人的欲望の充足が基本に有ることは容認出来ても、そこにはいつの時代にも通用する普遍的価値が無ければ単に浅ましい陣取り合戦をやっているに過ぎない。高等教育はそのために有るのではないと思う。

国にも個人にも転機となる時がある。そんな時、我々がどういう選択をしたか考えてみるといい。別に非難する為の検証ではない。我々の先祖がわずか70年ほど前にやれたことがもう現代の我々には出来なくなったのだろうか。

中部悦郎氏が率いた大長崎建設は昭和50年代に倒産している。手の回らない地方行政に代って建設の為の土地まで管理していた会社だが、終戦直後地主を特定出来なかった場所は長崎には幾らでもあった筈だ。その気になれば立場上会社や個人で取り込むことも出来たと想像出来るが彼らはやらなかったのだろう。やっていれば倒産の憂き目に会う必要など無い。

一方、終戦後の混乱期に都心で生活力の無い上流階級から土地を格安に長期割賦で仕入れ、後に各所にホテルを建てた典型的な成り上がり一族は、今でも遺産相続で揉めていて兄弟間の争いは解決していない。違法なことではないので何ら非難される必要は無いが、少なくとも全体が美しい姿ではない。

こういった姿は大長崎建設には見られない。彼らは家に困った人達を助けるために活躍し、当時の各所の町内会長が後押ししている。行政に成り代わって立ち上がった連中だ。杉本亀吉氏を含めて長崎の誇りとして後々まで残る人達だ。

昭和15年(1940年)生まれの我々世代は戦争を知る最後の世代で、かつ食べ物の有り難味を知る数少ない生き残りだろう。我々の価値観を今の世代に押し付ける気は毛頭無いが、貧しかろうと豊かだろうと普遍的な価値観が存在することだけは信じたい。もし、私たちが生きることに拘ることが出来れば、こんなに贅沢な話は無い。個人の利害を超越したところに生き甲斐が有る事を知れば我々の考えも少しは変わるのではないだろうか。金を残しても子供が相続争いを繰り広げる様は見苦しい。他人を押しのけて創った資産もどれ程の価値があるのだろう。古稀を過ぎると残りの時間は僅かになる。その時、俺は何をやっていたのだろうと思うのが大半ではないだろうか。私自身、恥多く反省多い今までの人生だったがどうしても譲れないものを持ったことはつくづく良かったと思っている。

資産を築けなかった落ちこぼれの戯言でもいい。生まれたとき裸でこの世に出てきた自分が、裸であの世に旅立つのも悪くはないと最近思うようになった。財を成して顰蹙を買う連中なら幾らでもいる。彼らの仲間に入ることが出来ないのは若しかしたら誇りに思っていいのかもしれない。これも入ることの出来なかった老人の僻みと取られても構わない。失くすものの無い強みは何ものにも代え難いと思うようになった。

友人が言っていた“俺の生き方が子供に残す財産だ”という言葉が身に沁みるようになった。彼からそれを聞いた当初、戯言としてしか捉えなかった自分が何だか恥ずかしくなってきた。良く考えれば彼の言うとおりだ。

不条理としか思えない災難が70年近く前長崎を襲ったが、民間から廃墟となった町の復興の為立ち上がった事実はもっと評価されていいのではないだろうか。平時での困難ではなく、人口の半分以上が亡くなり、後遺症に苦しむ中からの行動に頭が下がる。特に杉本亀吉氏は奥様と子息を原爆で亡くしている。それでも彼は地域の学校や町の再生のため立ち上がっている。

被災した時5歳だったため全体を俯瞰し、判断するだけの能力は無かったが、生き残った我々を困難な中で育ててくれた両親や復興のため立ち上がった先人に心からお礼を言いたい。ともすれば自分勝手な主張で権利だけを声高に唱え、損得で自分の人生を計るような人達を見るとつい何かが違うと思ってしまう。

身の回りにあった歴史を今まで知らなかったことが恥ずかしいが、遅ればせながら生きている内に知った事を喜びたい。身奇麗に生きて社会に貢献した人達がついこの前までは居た事実は郷土の誇りだけではなく、日本の誇りでもある。

心がけ次第で我々にも出来ない筈はない。この伝統だけは是非守り次の世代にも受け継いで欲しい。
歳を取るとつい説教口調になるが許して欲しい。後の無い老人のせめてものお願いだ。

平成25年9月17日
草野章二


編集人注) 終戦の年の東京の人口は何人だったか憶えていますか?国勢調査は5年ごとに行われている。すでに昭和15年に700万人を超えている。ところが、昭和20年の東京都人口は凡そ350万人である。5年の間に半減している。出征、疎開で東京から人口流出が起こったのだ。もちろん、空襲で亡くなった人もいる。