しょうちゃんの繰り言


8月9日

昭和20年(1945年)8月9日、その日私はめずらしく自宅に居た。いつもなら裏の淵神社の森で近所の子供達とパンツ一つで遊んでいる時間だった。家に居たのは叔母が2歳年下の従兄弟を連れて実家である我が家にその日来ていたせいである。昭和15年(1940年)生まれの私はその時丁度5歳で、8月9日の記憶もそれなりに残っている。長崎市竹の久保町が当時住んでいた我が家の住所だったが、場所は、今は稲佐山へのロープ・ウェイ発着起点になっている淵神社の陰にあたる。原爆が落とされ爆発したのが、この日8月9日午前11時02分だった。約500メーター上空で爆発した原爆は当時24万人居た市民の推定約7万人を即死させ、その後1年以内に同じ数だけ被爆者が死亡したと後に知ることになる。24万人居た長崎市民が突然1年間で14万人死に、そして10万人が生き残ったが、私達家族はその10万人の中に幸いにして含まれる結果になった。被爆した我が家は爆心地から1.4キロの地点に在った。

幾つもの偶然が重なり、爆心地からわずか1400メーターの地点に建つ木造二階家は痛みながらも残り、家の中に居た家族と叔母や従兄弟は何とか外見は無傷で生き残れた。原爆が爆発した中心地の浦上地区上空500メーターと我が家を直線で結ぶと、その間に淵神社の森(山というほどの高さではない)があって、この僥倖の森が原爆の被害から私たち家族を守ってくれた。

この距離では屋外で遊んでいた幼馴染の子供達は、殆んどが被爆直後または数日内で死んでいる。1400メートルという距離は、淵神社の陰になっていた事と家の中に居た事が重なってはじめて生き残る事が出来た奇跡の地点なのだろう。爆心地から1.5キロの同心円で囲まれた地域は鉄骨の工場を含め、ほぼ壊滅状態になっていたことを後で知ることになった。そして大部分の人が、遮蔽物が無い限り、爆心地から2キロ程度では即死状態だった。また、爆心地1.5キロ以内は放射線の最危険地域だとこれも相当後で知ることになる。こういった事を語るのは生き残った人にしか出来ない。

母は私の名を、叔母は従兄弟の名を叫んでいたのを覚えている。当時の木造家屋は土壁が標準だったが、爆風の衝撃で壁が壊れ家の中は土煙で良く見えなくなっていた。破壊された土壁の匂いがまだ記憶に残っている。飛行機の爆音に気が付き立ち上がった瞬間に全てが起きていた。全員裸足で飛び出し近くにあった防空壕に無我夢中で飛び込んだ。後になって壊れて道に散乱していた瓦でよく怪我しなくて済んだと話したのも覚えている。何が起きたのか誰も的確に知ることが出来ず、すぐ後に新型爆弾と大人は呼んでいた。

防空壕の入り口付近に寝かされていた幼い被爆者の姿を見たくない私は、防空壕から出ようとしなかった。外で見た光景の記憶は、後で聞かされた事が幾らか入り混じっているかもしれない。

断片的な記憶では、けが人が防空壕前の広場に手製の担架で運び込まれる度に皆自分の関係者ではないかと見に集まっていた。倒壊した家の廃材を井形に組み、その上にトタンを張って死体を燃やしていた。火葬場で処理出来る死体の数ではなかったし、夏場では死体の痛みが早いので誰言い出すともなしにあちこちで始まったのだろう。死体を焼く煙は市内の方々で上がっていた。

防空壕に入りきれない人は近くの畑に寝ていた。黒い雨に濡れた人は殆んど髪の毛が抜けている。私の従兄弟も被爆後暫く経っても髪の毛が抜けて血便をし、医者から好きなものを食べさせなさいと言われたらしいが、そもそも食べさせるものが無かった。母は爆心地で被爆した伯父の出征中の留守宅を訪ね、何にも無くなった焼け跡の敷地で妻である母親と赤ちゃんの残った骨から彼らだと確認したらしい。伯父は当時南方に出兵していて、生まれてすぐ爆死した赤ちゃんの顔を見ることも無かった。その伯父は右手を肩から失って戦後暫く経ってから帰国して来た。原爆投下の日、父は久留米の錬兵場に居て無傷だったが、父の兄弟は二人原爆で亡くなっている。一人は爆心地に近く、遺骨さえ見つけることが出来なかった。

幸いに髪の毛の抜けた従兄弟は未だに健在である。母は伯父の妻子の遺骨を探した時,瓦礫で怪我した足がなかなか治らず、酷い傷跡が一生残った。その母も72歳の時ガンで亡くなった。二人の叔母はそれぞれに幼い子供を原因の不確かな病気で亡くしている。一番年下の叔母は生存しているがガンだという。その叔母も髪の毛が抜けたという。亡くなった伯父や叔母の連れ合いにもガンが多い。

こういった個人的体験は長崎で被爆した人達にはめずらしいことではない。もっと悲惨な体験が幾らでもあるだろう。幸か不幸か、5歳という私の年齢が当時の観察範囲を狭くし、悲惨な体験の印象を薄くしている。5歳、10歳違えばもっと切実で深刻な影響を受けていただろう。だが戦後、飛行機の爆音と造船所の始業を知らせるサイレンの音は長い間私のトラウマとして残り、それを聞く度に身震いするほどの恐怖感を覚えた。(注:サイレンの音は戦時中の空襲警報だった)

私自身高校時代、毎朝顔を洗う時洗面器が真っ赤になるほどの鼻血が出ていた。朝、顔を洗わなくなったのはそういう経緯があったからだ。親にも誰にも知らせなかった。隣家に住んで仲良くしていた“すみれ”という名の同級生は18歳の時突然亡くなった。後で白血病と人づてに聞いた。これも長崎ではめずらしい話ではない。

原爆を落としたアメリカでは未だに、自国の高校生に戦争を早く終結させる為、原爆使用は最善の手段だったと教え、そのためアメリカ及び日本の戦死者を結果として少なくした兵器だったと教えている。

戦争を3ヶ月早く終結させる事が出来たら日本では60万人の命が救われていただろうと言われている。負け戦を長引かせた原因は色々と取りざたされているが、ここにも日本の指導者だった秀才達の限界が見える。歴史はやり直しが出来ない。日・米共に時の指導者達が最善の判断をしたとは到底思えない。戦(いくさ)に勝者は居るのだろうか。勝った方も負けた方も多大の人的犠牲を出し、苦しむのは犠牲になった家族だ。戦争をやるなら、その決定に参加した時の指導者達の子弟をまず最前線に送るべきだろう。乃木大将は日清戦争開戦の決定には直接関わっていなかったが、実質二人の子息は前線で戦死している。彼は終生戦地で死なせた部下を思い、遺族には事あるごとに涙ながらに謝っている。兵器産業と結び付き、すぐ軍事行動に出たがる国の指導者達に乃木大将の心構えとその奥にある悲しみを伝える事は出来ないのだろうか。彼ら指導者とその親族はいつも安全なところに居る。金と権力が結び付けば腐敗するのはどの国でも同じだ。残念ながらこれが人間の限界で、犠牲になるのは殆んどが社会的弱者だったことが歴史を見ても分かる。第一次大戦から一般市民が戦争に巻き込まれるようになり、特に航空機の発達で空爆が可能になった頃から市民の犠牲は格段に増えている。

第二次大戦でのドイツの都市ドレスデンへの歴史的空爆は銃後の家族を攻撃する事による前線兵士の士気低下を意図としていた。日本での原爆投下もそれまで空襲を受けてない都市を選んでいる。原爆の効果を的確に調べる意図がアメリカにあったからだ。さらに、原爆投下は当時のソヴィエトを意識してのトルーマン大統領の決定だった。チャーチルは事前に知らされていたが、スターリンには内密だった。歴史の裏側には、聞きたくない事が多く隠されている。そこには冷徹な分析がなされ、被害を受ける一般市民への配慮は無いと言っても良いだろう。我々はそれを戦争だと定義し、またいずれ繰り返すかもしれない。

被爆者だからと言って声高に正義を振り回しているのではない。近代の戦争によってもたらされた結末を、人類はどう総括するのだろう。どの国にも彼らの正義があり、戦争は避けられなかったと位置付ける。戦争に慣れてなかった日本の場合、各軍の指導者の面子を斟酌する余り、負け戦を冷静に判断し戦争終結の結論を出せる指導者が居なくて結局天皇の聖断を仰ぐ結果となった。天皇が唯一政治に口を挟んだ瞬間だ。それが無ければ一億総玉砕をやりかねなかった。

唯物的見方をすれば、戦争は科学技術を飛躍的に発達させる。コンピューターも元々ロケット弾の弾道軌跡の計算を正確に早くする為の計算機だった。インターネットも軍事的目的から開発され、今では携帯電話に組み込まれているGPSも軍事目的の人工衛星を利用している。人口増加は疫病がその調節の役目を果し、戦争も結果としてその役目に加担していた。皮肉なことであるが、人類は適性の無い個体を医学という手段でその生命を長引かせ、同時に自ら発明した兵器で戦いには直接関係無い人も大量に殺戮するようになった。我々は自ら出せない答えの分野に踏み込み、既に神の領域を侵しているのではないだろうか。

“天寿を全うする”というのは人格の無くなった個体の生命を長引かせることではないだろう。何処で線を引くのか我々人間の果せる役目ではないので人々は戸惑っている。同じ観点に立てば紛争相手の国なら無差別に攻撃してもいいことにはならない筈だ。攻撃する理屈なら幾らでも付くだろう。ただ住宅地の絨毯爆撃や木造家屋を狙った大量の焼夷弾に拠る爆撃も、どう正当化されても被害者は納得出来ない。原子爆弾などその究極の例だ。国民に選ばれ、短期間勤める国の指導者が下せる判断では断じてあり得ない。互いの正義を守る為戦うことはあり得たし、今後もあり得るだろう。その時でも我々人類の選択肢は同じだろうか。不可侵条約が何の役に立たなかったのを我々日本人は身を持って体験している。時代が違うとはいえ、自国の覇権と権益のため武力に頼る国は無くならないだろう。その為の抑止力として何を我々は具えれば良いのか情緒的・感情的な結論では何の役にも立たない。最終兵器を持った人類の永遠の悩みとして我々に選択を迫られている。究極の選択肢としては核兵器の抑止力に頼る手段さえ残されている。

科学技術の進歩で人類が踏み入れた世界は既に簡単に明快な答えを出せるような領域ではない。ただ、適性も無い人間が世襲か、選ばれたかは別にして多数の命の掛かった方向を安易に決めていることに問題がありそうだ。

私如きでは結論は出せないが、戦争や原爆の悲惨な体験を地道に語り継ぐしか方法が浮かばない。武力での制圧は何も解決しないことを我々は学ぶべきだろう。攻撃されない為の具えも必要だし、軍事力のみならず政治も文化もスポーツも争わない手段として全てが必要になる。異国・異文化との交流を密にするしか争いを避ける方法を思いつかない。

8月6日と9日が毎年巡る度に平和への式典が行われ、あらゆるメディアが取り上げるが、これは一過性の問題であってはならない。被爆経験者も残り少なくなり、我々の世代が記憶から語れる最後の生き残りだろう。体験者故に声を荒げる気は無いが、世界の指導者達に未熟な結論を出さないよう切にお願いしたい。日本を含め選ばれた人達の底の浅さがどうしても気になる。少なくとも自分の利害だけで判断するような人物は絶対避けるべきだ。自分の子供を前線に送り込んだ乃木大将の気概を持てば、浅はかな結論は出せない筈だ。精神性の高さは日本が世界に誇っていい文化だったが、われわれ現代の日本人にどれ位残っているか心もとない。

老人の思い過ごしである事を願っている。

平成25年8月26日

草野章二