しょうちゃんの繰り言
80歳の決心 |
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東京都の石原知事が突然辞任し、新党を立ち上げ国政への復帰を宣言した。彼の個人的な本音の部分は窺い知れないが、主な理由は知事時代の苦い経験を基にした官僚制度の改革(統治機構の見直し)だ。それに対し、馬鹿な質問やコメントが続出している。 ■ 今の日本の閉塞状況は、心ある国民なら誰もが共感する認識だと思えるが、彼が意図としているのはその閉塞状況の原因を打破することである。彼は本人も言っているように、乱世を好み、そこでより活躍出来るタイプの人間でもある。この歳で強いてチャレンジしているのが彼らしくて、しかも新党立ち上げは今の政界で彼以外では不可能だろう。 ■ 特に中央官庁でのキャリア制度は、特急に乗れた人と鈍行にしか乗れなかった人とではスタート時点でその人の将来が決まっており、鈍行から特急に乗り移ることは許されない仕組になっている。こんな硬直したシステム下で頑張ろうとする人はめったに居るものではない。こんな身分制度にも比する組織が、21世紀に残っていることに疑問を持たないことがそもそも不思議だ。敢えて言うが、後進国の典型的な権威主義で、これが日本の健全な発展を妨げている。何故ならこの価値観が全ての分野に蔓延っているからだ。高校の同窓会では大学の格付けででかい顔が出来ても、ただそれだけのことに過ぎない。そもそも日本では学問の神様として祭られている菅原道真は大学を出ていない。 ■ 自浄作用はどの分野でも上手くいった例は非常に少ない。官僚を仕切らなければいけないポジションにある政界もおよそ自浄作用とは無縁の集団になっている。厳しい目で見れば医学会も法曹界も教育界も同じことが言えるケースが多発している。民間でも同じである。 ■ つい最近では大阪の橋下市長を“ハシシタ”と呼び、かつ彼を“奴”と呼んで品の悪い表現と、いわれ無き非難を無謬を誇る新聞社が関連の週刊誌で行っていた。品が無いだけではなく、誇りも無く橋下氏の抗議にすぐ謝っていた。たとえ外部のジャーナリスト若しくは物書きと名乗る男が書いたとしても、記事にするかどうかの判断は社で出来た筈だ。 ■ 言われた事への辻褄合わせの人生を送ってきた付けが見事に日本の全分野に現れて来ている。どこにその根本原因があるのか言うまでも無いが、分かり易い例に例えれば、自然科学におけるノーベル賞は日本的価値判断では東大卒が独占しなければいけない筈だ。そうではないことが分かっていても中央官庁の価値判断はその域を一歩も出ていない。 ■ 創意や工夫といった知恵は人に自ずと備わった特性だと思うが、著書と作者を線で結ばせるような試験問題では若者達はその人としての特性さえ失いかねない。中学・高校・大学と馬鹿な物差しで若者の仕分けを続けた結果が各分野で見事に看て取れる。 ■ 少数の心ある人間が今の日本の現状を憂い、改革しようと立ち上がっている。志を同じくする政治家や今から政治家になろうとする人も必ず居る筈だ。今必要なのは細部に亘って政策の辻褄を合わせる事ではなく、“機構統治”の見直しという明治以来続いた官僚制度に楔を打ち込むことだ。 ■ 西ドイツのアデナウワー首相は1949年73歳でその任に就き、以来14年間87歳まで首相を務めた。この先例に学べば石原氏にはまだ充分時間が残されているとも言える。尤も80歳過ぎて若き乙女に恋をしたゲーテもこの国の人だったが。 ■ 大きな改革が必要なのか、必要でないのか国民は今判断しなければならない。閉塞状況を打破するには大きな外科手術が必要で、石原氏は日本はもう見過ごしておれないほどの危機的状況にあると判断して高齢にも係わらず意を決したと推測する。 ■ 竹島問題も、尖閣島問題も曖昧にしてきた付けが今噴出している。国際間で力強いメッセージを出せなかった政治家に根本的な原因があるが、強いメッセージを出すための備えも国民は怠ってきた。機構統治の問題は官僚だけの責任ではない。その方向性に指導力を発揮出来なかった政治家に一番問題がある。 ■ 石原氏が指摘しているのは、こういった形骸化の上に成り立つ組織とそれを指揮する政治家のシャッフルが必要な時だという危機意識だ。その根底となる国防、それに伴う憲法の問題等々、非常に大きな課題を我々に提起している。 ■ 平和憲法(第9条)があったから戦火に見舞われなかったのではなく、日米安保条約があったから他所の国は日本に手が出せなかったのだ。 政治家も国民もそろそろ目を覚ます時期ではないだろうか。 平成24年10月29日 草野章二 |
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