しょうちゃんの繰り言


80歳の決心

東京都の石原知事が突然辞任し、新党を立ち上げ国政への復帰を宣言した。彼の個人的な本音の部分は窺い知れないが、主な理由は知事時代の苦い経験を基にした官僚制度の改革(統治機構の見直し)だ。それに対し、馬鹿な質問やコメントが続出している。

まず、発表の場で、“都政を投げ出しているのではないか?”と言う質問があったが、これなんか全く意味の無い紋切り型の代表みたいなもので、石原知事が今辞任することで個人的に得することは何も無い。黙って任期を満了すれば退職金も増えるし、幕引きまで無難にこなしても誰も文句を言わない。高齢の石原知事の今回の辞任には、“投げ出す”理由をどこにも見つけることが出来ない。

かつて国政から突然引退したことを取り上げ、疑問を投げ掛ける者も居た。彼が属した当時の自民党は派閥の領主か、派閥に支えられた候補でなければ総裁にはなれなかった。25年議員を務め、そのやり方に不満があったから抗議の意味もあって自ら辞任したので、決して投げ出した訳ではあるまい。

今の日本の閉塞状況は、心ある国民なら誰もが共感する認識だと思えるが、彼が意図としているのはその閉塞状況の原因を打破することである。彼は本人も言っているように、乱世を好み、そこでより活躍出来るタイプの人間でもある。この歳で強いてチャレンジしているのが彼らしくて、しかも新党立ち上げは今の政界で彼以外では不可能だろう。

日本の閉塞状態を打ち破るにはしがらみの無いリーダーが出るのが一番適していて、積年の膿を出し切ることから始めなければ改革は無理である。業界や組合の代弁者では決して根本的な改革など出来る筈がない。石原・橋下両氏に共通する重要な要素がここにある。

時代に合わなくなった制度でも、その組織に属する人達は何かと理由を付けて存続を図るものだ。特にコスト・マインドの無い組織では収支の概念に疎くなり、一般常識からかけ離れたものを平気で残している。

民間であれば無駄なものは徹底的に省かれ、経済整合性に則った組織に自ずと舵取りをするが、自分で利益を生まない税金で賄われている官庁には基本的にこの意識が欠けている。

まして、年齢と共に自動的に昇給する人事制度では新しい事に挑戦し、工夫する風土は決して生まれない。残念ながら人の志は誰もが潜在的に持っていたとしても、発揮出来ないような制度の下では期待する方が無理だろう。

特に中央官庁でのキャリア制度は、特急に乗れた人と鈍行にしか乗れなかった人とではスタート時点でその人の将来が決まっており、鈍行から特急に乗り移ることは許されない仕組になっている。こんな硬直したシステム下で頑張ろうとする人はめったに居るものではない。こんな身分制度にも比する組織が、21世紀に残っていることに疑問を持たないことがそもそも不思議だ。敢えて言うが、後進国の典型的な権威主義で、これが日本の健全な発展を妨げている。何故ならこの価値観が全ての分野に蔓延っているからだ。高校の同窓会では大学の格付けででかい顔が出来ても、ただそれだけのことに過ぎない。そもそも日本では学問の神様として祭られている菅原道真は大学を出ていない。

自浄作用はどの分野でも上手くいった例は非常に少ない。官僚を仕切らなければいけないポジションにある政界もおよそ自浄作用とは無縁の集団になっている。厳しい目で見れば医学会も法曹界も教育界も同じことが言えるケースが多発している。民間でも同じである。

おかしなことがおかしいと言えなくなった組織は全て当てはまるだろう。

そこには閉塞感という空しさが漂い、人はそれを打破するよりその中で自分の立ち位置を探して挑戦する気概さえ無くしている。曽野綾子氏の“組織の中に生きながら勇気を示した人物などというものに、私は近年一人も出会ってない”という発言は正にそのことを指している。

つい最近では大阪の橋下市長を“ハシシタ”と呼び、かつ彼を“奴”と呼んで品の悪い表現と、いわれ無き非難を無謬を誇る新聞社が関連の週刊誌で行っていた。品が無いだけではなく、誇りも無く橋下氏の抗議にすぐ謝っていた。たとえ外部のジャーナリスト若しくは物書きと名乗る男が書いたとしても、記事にするかどうかの判断は社で出来た筈だ。

そこにはサラリーマンは居てもジャーナリストは居なかったことになる。居ても勇気あるジャーナリストは皆無だったことをいみじくも天下に自ら証明したことになる。これが一流といわれている新聞社の実態だ。

復興予算の流用も頭が良いとされている官僚のなせる業で、一流の新聞社にも役所にも適切な判断が出来る優秀な人間が居なかったことを我々頭の悪い国民に教えてくれた。

言われた事への辻褄合わせの人生を送ってきた付けが見事に日本の全分野に現れて来ている。どこにその根本原因があるのか言うまでも無いが、分かり易い例に例えれば、自然科学におけるノーベル賞は日本的価値判断では東大卒が独占しなければいけない筈だ。そうではないことが分かっていても中央官庁の価値判断はその域を一歩も出ていない。

創意や工夫といった知恵は人に自ずと備わった特性だと思うが、著書と作者を線で結ばせるような試験問題では若者達はその人としての特性さえ失いかねない。中学・高校・大学と馬鹿な物差しで若者の仕分けを続けた結果が各分野で見事に看て取れる。

少数の心ある人間が今の日本の現状を憂い、改革しようと立ち上がっている。志を同じくする政治家や今から政治家になろうとする人も必ず居る筈だ。今必要なのは細部に亘って政策の辻褄を合わせる事ではなく、“機構統治”の見直しという明治以来続いた官僚制度に楔を打ち込むことだ。

先例主義で全てを片付け、“工夫も創意も無い”集団に大人が知恵を付け加える時が来ている。この改革は石原氏や橋下氏だけに任せて出来るものではない。国民のバックアップが是非必要で、それが無ければ改革など不可能だ。

斜に構えた評論家と称する輩が、したり顔で実現は難しいと言っているが、彼ら(石原・橋下氏)は問題の本質を抉り出し国民に改革の必要性を問い掛けている段階だ。皆が必要と思えば自ずとその方向へ進むだろう。細かい政策の違いは今問題ではない。

西ドイツのアデナウワー首相は1949年73歳でその任に就き、以来14年間87歳まで首相を務めた。この先例に学べば石原氏にはまだ充分時間が残されているとも言える。尤も80歳過ぎて若き乙女に恋をしたゲーテもこの国の人だったが。

大きな改革が必要なのか、必要でないのか国民は今判断しなければならない。閉塞状況を打破するには大きな外科手術が必要で、石原氏は日本はもう見過ごしておれないほどの危機的状況にあると判断して高齢にも係わらず意を決したと推測する。

竹島問題も、尖閣島問題も曖昧にしてきた付けが今噴出している。国際間で力強いメッセージを出せなかった政治家に根本的な原因があるが、強いメッセージを出すための備えも国民は怠ってきた。機構統治の問題は官僚だけの責任ではない。その方向性に指導力を発揮出来なかった政治家に一番問題がある。

石原氏が指摘しているのは、こういった形骸化の上に成り立つ組織とそれを指揮する政治家のシャッフルが必要な時だという危機意識だ。その根底となる国防、それに伴う憲法の問題等々、非常に大きな課題を我々に提起している。

問題意識を持つことにより組織はより活性化するだろうし、国民も政治家もどういう道を選ぶにせよ我々の将来が懸かっていることに気が付くだろう。

今回の氏の行動は平和ボケした国民には良い刺激になったのには間違いない。

平和憲法(第9条)があったから戦火に見舞われなかったのではなく、日米安保条約があったから他所の国は日本に手が出せなかったのだ。

政治家も国民もそろそろ目を覚ます時期ではないだろうか。

平成24年10月29日

草野章二