ジャズと歴史にまつわる話 History of Jazz |
犬丸一郎 リトル・マヌエラの生みの親 |
1980年代から90年代にかけて帝国ホテル社長だった犬丸一郎さんは、赤坂見附のジャズクラブ「リトル・マヌエラ」の生みの親です。 戦前・戦中に華々しく上海社交界を席巻した国籍不明の踊り子Manuela(和田妙子)さんが戦後引き揚げてきて、内幸町に戦後初のナイトクラブ「MANUELA」を開店しました。各界の著名人らが集まる東京の社交界で知らぬものはいない存在となりました。また、マヌエラはジョージ川口、マーサ三宅ら戦後のジャズ・ミュージシャンたちが巣立った登竜門だったのです。ハウスバンドは何とブルーコーツです。犬丸さんはマヌエラの常連客だったのです。 リトルマヌエラの店主、中田光雄は1982年転勤命令を機に脱サラし、犬丸さんの協力援助によりお客さんがジャズソングを歌えるピアノ・バーを赤坂は不動尊の隣に開店しました。店の名称は犬丸さんがマヌエラさんに許可を得て「リトル・マヌエラ」と決めました。1982年4月のことです。
犬丸さんの著書を戴きました。帝国ホテルに関わる色々な著名人の話題が書いてあります。戦後のオペラ歌手、藤原義江(1920-1975)は帝国ホテルが住居でした。
犬丸さんの幼稚舎からの1年先輩に笈田敏夫、大橋節夫がいます。刺激を受けたと言っています。学生時代からバンドマンで、浜口庫之助や平岡精二らとスィング・サーフライダースを結成し、ベースを弾いていました。進駐軍やホテルの倶楽部で演奏していたのです。 幼稚舎の卒業生が70歳になると、各クラスから2名ずつ選ばれて「幼老会」というグループが出来ていて、各季節に昼食会が銀座の交詢社で開かれています。何年か前まで、犬丸さんが会長をされていました。私も2011年に幼老会メンバーに指名されて通うようになりました。犬丸さんのテーブルに他の先輩と3,4人で座って喋りながら食事した日もあります。90歳になるころに会長を退き幼老会を退会されました。 ■ ■ ■ ■ ■
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