原野さんを偲ぶ われわれの親父のようだった原野秀永氏は2009年6月20日にご逝去されました。 享年90歳でした。ちょっと若過ぎます。
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偲ぶ会の出席者 2009年10月17日 根津「フレンディ」にてごく親しかった学会仲間が集まりました。 |
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原野さんを偲ぶ古いアルバムから |
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コインブラ大学 干からびて1本半飲みました 伊理教授夫妻と若山と4人で出かけました。 |
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これが最後のOR学会 |
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原野さん 長い間ありがとうございました 楽しかったです どうぞ安らかにお眠りください |
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Web制作:若山
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この原野さんを偲ぶアルバムを冊子にして、原野さんの奥様の安子さまにお送りしました。大変に喜んでいただきました。原野さんのご佛前にお供えいただいたとのことです。 「偲ぶ会」当日に写真を持ってきていただいた皆さんの温かい気持ちが、原野家に伝わりました。お世話をさせていただいた幹事たちは嬉しくて言葉もありません。 奥様からは、すぐにお礼のお手紙を頂戴いたしました。そこには当日出席の皆さんのご住所を教えてほしいと書かれていました。私から奥様に、思えば46年間お世話になった長い話などを添えて、住所リストをお送りしました。それに対して、また、ご丁重な書状をいただきましたが、別便にて、原野さんが「俳諧」についての歴史をまとめたA4版ワープロ115ページ余の本の「はじめに」、目次と第一章、最終章の終結部分、それに「あとがき」をコピーして送ってくださいました。 電気屋さんからコンピュータ屋さん、OR屋さん、そして大学教授までお仕事は理系の道を歩まれてきた原野さんが「俳諧の歴史」の大著を書き上げられていたのです。やっぱり原野さんは幅広くそして奥の深いユニークな親父でした。(わかやま)
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はじめに 文系でもない私が何故この本を書いたのか?その理由は私の俳句遍歴の中に在ると思いますので、之を述べて見ることにします。私が初めて俳句を知ったのは小学生の頃に一茶の「痩蛙 負けるな一茶 ここにあり」でした(之は正確には俳句ではなく俳諧ですが、当時は俳句だと教えられました)。俳句と俳諧の区別を聞いたのは中学の夏期休暇の補習授業で受けた奥の細道の講義でしたが、当時はあまり良く理解できませんでした。其の後友人と真似事のような俳句を暫く続けましたが、戦争で之は中断されました。終戦、復員後東芝に復員した頃組合の人の勧誘で再び俳句を始めました。ある時句会の後で連句の話が出たのを機に「盲人蛇に怖じず」の諺の通り、「やって見るか!」という事になりました。連句の話もよく理解出来ないままに集まった四人は闇汁の席で粕取焼酎の勢いに任せて連句らしいものを詠みました。発句、脇句、第三と進んで十句程詠んだ所で進行はアルコールの力で止まり、席は五里霧中の有様となりました。結果は支離滅裂に終り、其の後再び挑戦する事は有りませんでした。然し私には連句の「前句に付ける」と云う所に何か惹かれるものを感じました。 |
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戦後の俳句の世界は思想傾向が重要視されたり、十年一日の如き守旧派が居たり、その反面理解に苦しむ様な句を称揚する派もあって俳句の世界は混迷の様子でした。私自身組合的な俳句に嫌気がさした事と、転勤や、仕事の多忙のために俳句からは遠ざかって行きました。然し暇な時には露伴の七部集の評釈や柳田国男の俳諧の評釈等眺めましたが、矢鱈難しい事だらけで理解するには程遠い有様でした。大学で教鞭を取る様になってセミプロの先生を中心にして月一回の句会に参加する様になりましたが、句会間近になると学生に問題をやらせて其の間に句を考える相変わらずの怠惰な状況でした。然し句会は一党一派に偏らず、自由勝手に発言の出来る楽しい集まりでした。再び俳句を始めた以前(多分昭和五十年頃ですが)、ドナルド・キーン教授の「日本文学史」を読んで、不図眼から鱗の落ちる思いがしました。俳諧は天明以後時代の流れと共に衰え、文明開化の時代では滅亡寸前の有様でした。明治中期子規がこの俳諧の中から、時流に適さないものを切り捨て、不易なものを取り上げ、時代に相応しい新しいものを組み立てて俳句と命名しました。其れは芭蕉が従来の娯楽の色の濃い俳諧を離れて、和歌連歌の中の不易なものを時流の内に求めて蕉風を確立したのと同じ道を辿って居る事を知りました。この時から私の興味は歌仙から俳諧が変遷する様子(俳諧の歴史)へと変わりました。本来なら俳諧の歴史から俳句の歴史にと続けたいのですが、素人の悲しさ、私にはとても不可能なので俳諧に限りました。以後十年程経て、二年ほど前から筆を執ってやっとこの夏筆を擱きました。素人の俳句の前史としてお読み戴ければ幸いです。 ■ |
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■ 1 白鳳から中世未までの世の中の移り変わり 連歌、俳諧の歴史を知るのに連歌、俳譜の変遷だけを述べても埒のあかない事が多く在ります。やはり歴史の流れと共にそれらの変遷を眺める事が必要です。この中では先ず社会、経済の動さを述べて、その後で連歌、俳諧の移り変わりを述べる事にしました。 日本の国が国家らしい形態を持ったのは大宝令が公布された大宝元年(701)でした。奈良の都から平安京に遷都後藤原氏が政権を撞り、鎌倉幕府を経て、室町幕府が政権を失うまでの千余年に捗る社会経済の移り変わりは之に続く近世四百年の変化に比べると非常にゆっくりとした歩みでした。然しこのスローテンポの千年間は其の後明治維新と言う新しい日本に生まれ変わる為には必要不可欠の時間でした。 大宝令成立の切っ掛けとなったのは大化の改新でした。この改新では従来の氏族による政権と異なって、天皇家を中心とする律令国家が成立し、藤原氏を始めとし、大伴氏、橘氏と言った旧氏族の一部が政権に参加して居ました。そしてこの時代は外国(唐)のものと日本の古来のものが混在する時代でした。それを最もはっきり示したのが「万葉集」です。その中には山上憶良の「沈痾自哀文」の様に中国の新知識が散りばめられた文章も在れば、歌垣の歌や東歌の様な当時の風俗を示す歌もあって、国民のあらゆる層から撰集された歌集でした。 平安時代に入ると藤原氏は一族の子女を妃、中宮、女御等として天皇家に送り込む外戚政策を積極的に行なって成功を納め、宮中に強力な勢力を植え付けました(平安時代を通して藤原氏が外戚となった天皇は約六割でした)。その一族は朝廷の要職を獨占するに到り、天皇から下賜されたり、独自で開墾したり又は地主が寄進したりした広大な土地を私有して居ました(之が荘園で、公卿以外に皇族、権力者や寺社が所有する荘園がありました)。本来私有地である荘園は租税を支払うべさでしたが有力者の荘園の多くは強引に不輸祖田(地租免除の田)となって居り、藤原氏の荘園も例外ではありませんでした。中央の公卿達が詩歌管舷に耽り、道長をして「この世は望月」と詠ませた元は荘園からの収入でした。然し天皇家の中で母の出身が藤原氏以外の為に貧乏籤を引いた皇子達は天皇から姓を貰って臣簿に降下しなければなりませんでした。彼等は地方の領地を根拠地に源平二流の武装集団(武家)を結成しました。落ち目の藤原氏をよそに武家達の一部は京に戻り、天皇家の内紛や権臣達の争い(保元、平治の乱)に関与し、力を付けました。先ず藤原氏を抑え政権を奪取したのは平家でしたが、公卿化した平家は後白河法皇の策に乗って西海の藻屑と消えて行さました。平氏を没落に追い込み鎌倉に幕府を建てた武家集団の長、源頼朝は平氏追捕を名目に守護聴、地頭を置いて幕府直属の武家達を任命しました。朝廷側(天皇家と公卿)は鎌倉幕府の武家集団に一矢を報いようとして失敗に終りました。其の後鎌倉の北条氏の自滅により平和が到来したかに見えましたが、肝心の天皇家が南北二朝に分かれて争う始末でした。南北二朝の統合で中央には弱体な足利氏と一部の公家とがやっと室町幕府を建てましたが、全国が統一されるまでには群雄割拠の戦国時代を通過する必要がありました。この様な中央の変遷に村して地方の方にも大きな変化がありました。平安時代には国司が朝廷より全国に派遣されて地方を治め、農民より租税を徴収して居ました。他方公卿達は多数の荘園を持ち、地方ではそれらは独立した存在でした。その管理は下級の家人(荘司)に任せ、そこから得られる収益によって公卿達が栄華な宮廷生活を送る事が出来たのは平家没落の前まででした。鎌倉幕府が平氏追討のため守護職、地頭、御家人を地方に配置した以後荘園は大きな制約を受けました。更に承久の乱により幕府に対抗した公卿の荘園の多くは地頭、御家人の手に移り、彼等の多くは村や地方で小地主となりました。又大化の改新で消滅した筈の氏族も平安以後も尚地方の豪族として生残って居ました。室町時代になると公卿の荘園は幕府の要人の所有となったり、守護職大名や地方豪族(地方に定住した国司郡司の末裔や従来からの豪族達)の手に移ったりして公卿が持つ荘園は更に少なくなりました。 平安時代を通じて地方の集落や荘園では塩、鉄製品等特殊な物品以外は自給自足が普通で、この他に荷物を背に負った行商人が地方の集落や荘園を廻づて商売をして居ました(鉄製品を取扱う鋳物師達も行商人だったと云われて居ます)。然し地方の中心地では定期的に市が開かれて物々交換が行なわれ、特に京では公家、大社寺、高級官僚のための贅沢品の店舗が既にあり、京の東西lミは常設の市も開かれて布、針土器等の家庭用品や食料品等の店舗が在りました。中世では、経済は農地よりの租税が主で、商品の売声や交換の手投は米や絹でした。わが国で貨幣が初めて鋳造されたのは和鋼元年(708)で、以来一世紀半に捗って幾度か貨幣が鋳造されましたが、世間では銭が嫌われて以後貨幣の鋳造は暫くの間停止されました。貨幣が使用され始めたのは清盛が宋との貿易で多くの貨幣を輸入した頃で、続いて元、明の貨幣も輸入して使用される様になりました(日本の貨幣経済の出発点はこの頃した)。官許の外国(主とし中国の宋、明)との貿易は大さな利益が得られるため室町時代を通じて盛んに行なわれ、博多、彷ノ津、尾道や堺等は通商の港として栄え、町には豪商が軒を並べる有様で、鎖国を励行した徳川時代に比べると海外貿易は活発でした。貨幣経済で最も好都合の商売は金融業でした。中世の中頃初歩の金融業である質屋を営んだのが土倉(どそう:質種を保管するのに土壁の倉を持った家)と酒屋でした。土倉、酒屋に続いて貨幣経済の担い手となったのは京の町衆や堺の納屋衆と呼ばれた輸入商人や豪商達でした。彼等は公卿文化と異なった独自の文化を創り出し、近世に到って町人として文化の華を咲かせました。 平安初期の文化は唐文化が中心で漢文、漢詩が流行し、建物は唐風でしたが、中期には独自の文化が起り、その一つは仮名でした。従来仮名は万葉仮名でしたが、新しく漢字から平仮名が作られました。他方藤原氏の外戚政策で宮中の有様は変り、女房が重要な位地を占める様になり、宮中の女性達は宮中に新しい文化(宮廷文化)を創りました。彼女達の目指すものは雅(みやび)でした。其の為に言葉は日本古来の大和言葉を使用し、文字は平仮名を使いました。この優美で豪華な文化を支えたのは公卿達の荘園の財力でした。鎌倉時代に入ると公卿文化は幕府の高官や地方の有力武士に浸透しましたが、固有の文化は見られませんでした。南北朝の戟の後室町幕府は、新しい東山文化を作り、公卿、武家や権門の人々がこの文化を享受しました。特に彼らが愛したのは能と狂言、及び連歌で、絶や連歌は世阿弥、や宗祇等の名人の力で芸術の域に達しました。京が戦火の巷となった時避難の族に出た公卿や有名人達に依って文化が地方の大名や有力者に伝えられました。それが周防の山口や駿河の府中等地方の大都市に文化の芽を植え付ける事になりました。又庶民の一部が文化に触れた事はこの時期の特色でした。村落の神社の中には宮座と云う集団が設けられ彼等は都から踊や能、狂言を導入したり、集団で茶会や連歌の会を催したりする所が増えて来ました。中世が終った先は比較的安定した状態でしたので室町文化は滑らかに次の桃山時代に移りました。 ■ |
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(中略) ■ 俳諧の発生から現在までの長い俳壇の経緯を眺めると、流行に乗った流派(例えば談林派やある種の自由律の流派等)が消えたり気息奄奄の状態こ在ったりするかと思えば、逆に流行に逆らう様な行き方でも生き延びて発展して居る流派が見られます。之からすると流行は長い目で見た盛衰にはあまり関係しないのでは無いでしょうか?長期に目で見て盛衰を決めるものは流行と別に何かが在る、其れが不易なるものでは無いでしょうか?流行を無視すれば其の時代の読者に飽きられるし、流行に噛付いて居れば根本となるものを失って長い間には読者を失う事になります。不易、流行のバランスは難しい事は貞門と談林の例でも良く判ります。目に見えない不易を心で探し当てたのが芭蕪でした。 現在世の中の状況は驚くほどの速さで動き、特に通信、情報と云った分野は革命的変化を超こし、国際間の壁(習慣、言語等)も急速に低くなって居ます。情報と其の伝達が基本である俳句は必然的に変わらざるを得ないでしょう。例えば手近かな所でTVによる歌仙や双方向通信の句会等は今でも実現可能ですし、更に進むと季語は広範囲になるが其の重要性は低下し、言葉も日本語だけでなく英語、仏蘭西語等各種の言葉が使用されるでしょう(現在でも既に英語等の外国語による俳句は次第に盛んになっています)。こうなると最早俳句という名前は消えて新しいものとなって行くのかもしれません。それは明治中期に俳諧が俳句になったのと同様な現象でしょうか?俳句の場合重要な事は俳諧が俳句として生まれ変わる時に不易なものが受け継がれ、其の時代の新しいものが流行として導入されました。例えば新しいロマン主義に村しては漱石のロマン主義的な句が、自然主義の勃興に村しては新傾向俳句が盛んになりました。然しこれらは何れも流行であって、その底流には子規が芭蕉、蕪村から安け縫いだ不易なものが流れていました。昭和初期の新興俳句騒動や戦時中の俳句弾圧にも拘わらず俳句は健在でした(戦後の第二芸術論でも俳句は第二芸術にはなりませんでした)。終戦以来俳句の様式は色々に変わり、流派も多く派生しましたが、何等かの形で不易を保ったので俳句の中に存在して居ます(然し俳諧の中で一度不易を失った俳諧は雑俳として別の世界に転落して行きました)。将来現在の俳句が大きく様を変えた時でも不易なるものを其の中に継承して居る限り、それは俳譜の孫であり、俳句の子供なのです。不易は経承の遺伝子です。人間の遺伝子は見えますが、不易は目には見えません。この様な夢を見ながら俳譜史の幕を閉じます。 摘筆 ■ |
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あとがき
やっと筆を置く事が出来てほっとして居ます。この本の原稿の筆を下ろしてから、二年半が経過しました。その間幾度か方向の修正を行なって来ましたが、良く考えて見ると始めに計画したものに近くなってしまいました。一番苦労したのは俳諧と歴史のバランスでした。ともすれば歴史が前に出るのを食い止めるのに気を使いました。 俳諧の部分を書くのには一番ご厄介になったのはロナルド・キーン著の「日本文学史」と小西甚一著の「俳句の世界」で、私が書き進めるに際して方向を見定める北極星となりました。又芭蕉以前の俳諧には中々お目に掛かる機会は少なかったのですが、乾裕幸著の「古典俳句鑑賞」、坪内捻典著の「米山百句」から俳諧の情報を得る事が出来ました。歌仙に関しては尾形助著の「歌仙の世界」や安東次男氏の著書に因る所が多くあります。俳譜史なのに歴史的、経済的な部分にかなり多く割いたのは俳諧の盛衰の波が時代の流れと対になっている事に気が付いた為です(多少多めなのが気になります)。 続猿蓑に関しては初めて七部集を読んだ昔から凝問を持って居たので少し分析、推理してミステリー的に書いて見ました。是は素人の余興の一頁としてご覧下さい。 最後に本来ならば現在の俳句の世界から俳譜を眺めるべきでしたが、現在の俳句には明るくないので自分の範囲で俳諧を眺めました。従って誤りや偏見も多く在るかも知れませんが御容赦下さい。書き上げて一息ついてホットして居るところです。 平成拾七年猛夏 |
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