ジャズと歴史にまつわる話

ジャズの救世主とFree Jazz革命

John Coltrane(1926-1967)

ジョン・コルトレーンは1943年ハイスクールを卒業するとフィラデルフィアに移り、Ornstein School of Musicでアルト・サックスの勉強始めます。

おかしいですね。チャーリー・パーカーがテナーをコルトレーンがアルトを習っていたのです。さかさまですよね。2年後には海軍のバンドに引っ張られてハワイでクラリネットを吹いていたのです。後に、ジャズの救世主と言われテナーサックスの天才と呼ばれたコルトレーンの10代の頃の話です。

戦後、1949年にディジー・ガレスピーのバンドに入り、名前が売れてくるのですが、華々しい音楽活動は死ぬ前の6年くらいなのです。

マイルス・デイビスのバンドに1954年に入るのですが、出たり入ったりしています。マイルスはソニー・ロリンズを使いたかったのです。

1960年代初めに自分のカルテットを結成しました。


Elvin Jones(dr)   McCoy Tyner(pf)  John Coltrane(sax)  Jimmy Garrison(bs)
1962-1965

丁度、爵士樂堂が大学生の頃、日本でもコルトレーンの名前が知られました。2年後輩がコルトレーンのファンで、私のところに遊びに来るときは必ずコルトレーンのLPを抱えて来ました。

彼がコルトレーンを私に聴かせ、わたしはフォーフレッシュメンのコーラスを聴かせるのです。もの寂しげなテナーサックスの音には酔いしれましたね。どれを聴いても悲しげでした。打ち沈んでは、フレッシュメンのオープン・ハーモニーで元気になるのです。この後輩は囲碁が6段でした。

当時、聴かされたレコードは60年代半ば、コルトレーン自身のバンドになってからのものです。ピアノにはMcCoy Tynerがいました。


Ornette Coleman(1930-2015)

Cecil Taylar(1929-2018)

1964年に”October Revolution”と呼ばれる一連のコンサートがあります。これはニューヨークのCellar Cafeで行われたものです。そのときのリーダーがColtrane、Ornette Colemanそして Cecil Taylorです。これが「Free Jazz革命」となります。コルトレーンの音楽は神がかりなものになり、精神性を高めるためにフリーなジャズの境地に入り込んでいったのです。それで「救世主」なんですね。

何が革命だったのか?1930年代のスウィング時代から1940年代半ばのビ・バップ時代へと移りますが、アドリブの取り方がメロディのFakeからコードの中で自由にFakeするようになったのですが、フリージャズでは、コードからの開放という即興概念で滅茶苦茶な革命でありました。あえて言えば調性とリズムだけを意識に置いているのです。

しかし、コルトレーンはその2年半後の1967年に41歳で肝臓ガンで亡くなってしまいます。短い生涯で、後継者達は打ち悲しみましたがFree Jazzを残して死んでいったのです。(1998/10)

O. Colemanが死にました ⇒ 死亡記事

Cecil Taylorも死にました ⇒ 訃報


中川ヨウが毎日新聞にコルトレーンの記事を書きました。

(2022/9/6)


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