まえがき |
小学生の子供の頃から何故かジャズを口ずさんでいた一人のオジサンが還暦近くなっても古い歌を嬉々として唄っている。ジャズのスタンダード・ナンバーと呼ばれる1910年代頃(大正初期)からアメリカで生まれた数々の名曲は、何処で聴いても、いつ唄っても決して飽きることなく、歳を重ねるとともに新しい感動を呼び起こしてくれる。何万といった歌の中から後世に残るような歌は奥が深いのであろう。もちろん、はじめはアメリカにおいても単なる流行歌に過ぎなかったものもある。それが、いい素材の歌をいい歌手やいい演奏家、あるいはいい編曲家たちが競って素晴らしいものに育てて行く。これがスタンダードと呼ばれる歌たちなのである。 わたしが幼少の頃は「若鷲の歌(予科練の歌)」などの軍歌を、近所の家に押しかけて行っては一曲唄ってきたものである。押しかけて行く家はいつも4、5軒の家に決まっている。おばさまたちは「クニちゃんは歌が上手ね」とほめてくれる。三つ子の魂が、いまもなお続いているといえば、現在を知る同好の諸兄、諸姉には納得してもらえるであろう。 1945年、終戦とともに世の中は180度ひっくり返ってしまい、気がついてみると今まで聞いたことの無い心地よいアメリカの歌がどんどん耳に飛び込んできた。心地よいのは当たり前なのだ。1930年代から40年代の、いまでいうスタンダード・ナンバーばかりだったのだから。 英語の歌に抵抗感がなかったのは、終戦直後に京城(現在のソウル)にあった我が家が米軍に接収され、二人の将校がホームステイしたことが直接の理由である。毎晩、英語を聞かされるうちに簡単な話は分かるようになっていたし、4歳半にして喋りだしていた。“Kuni, face”といわれると、洗面所にとんで行き、母親に顔を拭いてもらう。そしてキャプテンの所に行くと、大尉はおチビさんを膝の上にひょいと乗せてくれる。「faceとは顔をきれいにすることなり」と心得ていたのだ。終戦の翌年、釜山で引き揚げ船の興安丸に乗り込む時、連合軍の兵隊たち相手に英語をしゃべったため大騒ぎになった。「こんなチビが英語を話す」とたくさんの兵隊たちが集まってきて、私を抱き上げて乗船させてくれたのである。たしかガムか何か、お菓子をもらったのような記憶がある。日本本土に帰り、やがて英語はしゃべる機会がなくなり忘れてしまう。 東京に引き揚げて、しばらくすると日本の歌謡曲なるものも続々と登場してきた。笠置シヅ子の歌も聞こえてきた。二葉あき子の歌も聞こえてきた。もちろん、藤山一郎の歌も聞こえてきた。しばらくすると、天才少女の美空ひばりがデビューした。しかし、日本の歌よりジャズというかポップ・ソングというか(当時はあまり区別がなかったような気がする)、アメリカの歌がなぜか肌に合う不思議な子供だった。何年かして12歳の夏、臨海学校の宿で繰り返し聴いたPatti Pageの”I Went To Your Wedding”には涙がこぼれた。 最近、若い人たちの間でもスタンダード・ジャズを愛好する人たちが静かに増えつつあるらしい。ご同慶の至りである。しかし、後世に残る名唱を数々残した私の大好きなEthel Waters, Billie Holiday, Ella Fitzgerald, June Christy, Maxine Sullivan, Sarah Vaughan, Carmen McRae, Dolly BakerそしてLouis Armstrong, Al Jolson, Bing Crosby, Nat King Cole, Johnny Hartman, Chet Baker , Sammy Davis Jr., Frank Sinatra それに、つい先頃亡くなったJoe Williams, Mel Tormeなど、不世出のボーカリストたちが相次いで他界してしまった今、われわれ熟年のオジサンはスタンダードを若者だけに任せておくわけにはいかない。人様が何と言おうと、大袈裟に言わせてもらえば、この素晴らしき何十年のジャズの歴史を耳で、目で、肌で体験してきた世代なのだから。 わたしが生まれる頃はスイング時代の絶頂期といわれ、ジャズが完成度を高めた時期である。ベニー・グッドマンやグレン・ミラーが名声を築き上げていたし、フランク・シナトラもトミー・ドーシー楽団で大人気を博し始めていた頃である。ビング・クロスビーは既に大歌手だった。 それにも増して、数々のスタンダードの名曲を生み出してくれたIrving Berlin, Cole Poter, Ira and George Gershwin, Duke Ellington, Billy Strayhorn, Hoagy Carmichael, Harold Arlen, Richard Rodgers, Lorenz Hart, Jerome Kern,Oscar Hammerstein II, Victor Young, Jimmy Van Heusen, Ted Koeller, Johnny BurkesそしてJohnny Mercerらの名を忘れたらバチが当たる。この時代に生れ何十年にもわたってスタンダードを楽しめたことは、わたしの人生をどれだけ豊かにしてくれたことか。 ある時までは、わたしの趣味は聴くこと、唄うこと、アレンジすることなど実技ばかりだったのが、50歳を過ぎる頃、歌の背後に目が向いてきた。誰が作ったのか、どんな背景を持つ歌なのか、好きになる要因は何なのか、誰が唄った歌が好きなのか、そんなことに興味を持つようになっていた。これはトニー・ベネットをはじめ向こうからやってくる大歌手たち自身が自分の唄う歌の作詞家や作曲家の名前を、敬意と愛情を込めて紹介することに気づいたのが動機だったといってよい。この歌は誰がいつ書いたのかから始まり、それにまつわる話を少しずつ調べ、忘れないように書いてはため込んでいた。独断と偏見に充ち満ちた辛口の歌にまつわる随想もたまって来た。興味を持って調べていくと、バラバラだと思っていた話が互いに深い関連をもった世界だということがだんだん分かってくるのでさらに興味津々。つぎつぎと話がつながっていくのである。今なお、新しいことの発見ばかりである。 さらに、まったく別の世界、別の専門分野の諸事も同じような構造を持っていることも不思議だ。つまり、一つのことをある程度まで掘り下げて行くと、そこに何らかの真理とか原理、あるいは他事との共通点を見出し、それが別の分野のことを理解するのに大いに役立ち、挙げ句の果ては「何だ、人間様がやっていることは対象が変ってもみな同じだ」という結論に達する。そんな結論は無関心な人には面白くないかもしれない。しかし、わたしには面白い。 はじめ小冊子だったものが結構な分量になってしまった。事実に忠実に書こうとしながらも、筆者自身の視点と興味から書いてしまったところがかなりある。そもそも、人様に読ませるつもりで書きはじめたものではないのだが、一旦、書いてみると人に読んでもらいたくなるのが正直な気持ち。だから、恥ずかしくないようにと何度も手を入れることになる。何事でも同じであるが、ものに書いてみると足らざることがつぎつぎと露呈し、それを埋めるべくまた何かを調べたり、読んだり、人に話を聞いたり、つまりお勉強が始まる。ところが現代は情報化時代、およそ300年前の産業革命以上といわれるコンピュータ・ネットワークがもたらす第二の産業革命がすぐそこまで来ている。インターネットという仕掛けはおそらく書物を図書館で調べていたら何ヶ月もかかる検索や調査があっという間に出来る時代にしてしまった。われわれの生活も、仕事も、企業も、経済もすべてを変えてしまおうとしている。 しかし、スタンダード・ジャズは変わらないのである。「わっはっは、ああ、愉快、愉快」 さらに、今年は我が母校、慶應義塾の創立140周年に当たる。
爵士樂堂主人 若山
邦紘
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