ジャズと歴史にまつわる話 |
Miles Davis ルイの後継者 |
Miles Davis(1926-1991) |
1941年、真珠湾奇襲攻撃に始まり日米もついに開戦し、世界中が戦争の渦にまきこまれていきました。日本では、それまで新しい物好きの大学生達がジャズを始めていたのですが、ジャズは「敵国の退廃的音楽」と決めつけられて放送からも締め出され、おおっぴらには演奏が出来なくなりました。 そんな昭和17年には、16歳になったマイルス・デイビスは東セントルイスの田舎でBlue Devilsというバンドでトランペットを吹いていたのです。 実際に桧舞台に出てくるのは戦争が終ってからです。1945年にニューヨークに出てきますが、両親の希望でマイルスはJulliardに入ります。21歳のときCharlie Parkerのバンドに参加します。 若いプレーヤーは誰もがバップしかやらなくなりました。やがてスイングは隅に追いやられるようになってしまいます。 とは言うものの、ベニー・グッドマン楽団、グレン・ミラー楽団、トミー・ドーシー楽団などは、スイングバンドとして誰からも別格扱いを受けていました。 |
クールジャズの種まきはケントンらですが、マイルス達が一連のレコーディングをしたのが、クールジャズの始まりといわれています。 結局、チャーリー・パーカーのバンドには1年ほどいましたが、Max Roach共々「どうも、うさんくさい」と言ってやめてしまいました。 終戦前後にはバップがジャズの世界を引っ張っていくようになりました。バップが憲法なのです。マイルスはバップから始まったと言ってよいでしょうが、時代の流れにそって次々と新しいものに挑戦して行きます。 バップの連中はドラッグの常習者ばかりでしたが、マイルスは、1954年頃、ドラッグからすっぱりと足を洗いました。マイルス自身、ヘロイン中毒でプレーもレコーディングも出来ない時期があります。
バップからクールへ、そしてHard Bopへ、最後にはフュージョンへと変身を遂げます。とにかくマイルス・デイビスはルイ・アームストロングの後継者と言われる巨人でした。(1998/10)
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