ジャズと小噺

(24) 司会者MC

小島正雄(1913-1968)

その歴史70年という老舗バンドにブルー・コーツがあります。戦前のフラタニティ・シンコペーターズが前身です。

「味の素ミュージックレストラン」という番組がありました。1951年に開局直後のラジオ東京(現TBS)で毎週水曜日の夜に放送されましたが、この当時のブルーコーツでナンシー梅木がよく歌っていました。同じように笈田敏夫も専属歌手となりました。

1953年に日本テレビが開局し「味の素ミュージックレストラン」という「ジャズのど競べ」が放送されるようになり、間もなく、トランペットの小島正雄さんが司会専業となりました。この頃、MCという言葉が出来たのだそうです。

小島さんは11PMの司会者となり、そのソフトな話し口とベストドレッサーの紳士としてお茶の間の人気者となったことは記憶に鮮明に残っていることと思います。

それまでの司会者は、ミュージシャンを「さん付け」で呼んだものです。歯の浮くようなお世辞もたらたら述べる司会者がうようよしている時、小島さんは全くスタンスが違っていました。「これから、ナンシー梅木が歌います。笈田敏夫が歌います」といった具合です。出てくるミュージシャンは小島さんの番組での「売り物」なんです。自分の身内に「さん」なんてつけることはありません。司会がコンサートや番組を取り仕切るマスター・オブ・セレモニーという地位を確立しました。

こちら側は1つ、あちら側はお客様というわけです。

  ◆ 


長尾正士とThe Orpheans,2002

さて、時代は変わって新しい話です。ブルーコーツの創始者、長尾正士さんが1998年に再結成したオルフェアンズのディナーパーティが2002年に皇居前パレスホテルで開催されました。


芝小路豊和(1920-2010)

オルフェアンズのパーティでは専属歌手の芝小路豊和さんが必ず歌いました。この日のパーティでは、恵比寿にある高級クラブの支配人が司会を買って出たのですが、まあ、お口は上手に回る人でした。

が、芝小路さんが登場する段になって、

「それでは、しば・・こうじさん!」

われわれは仰け反りました。

このアホ司会者は「姓はシバ、名がコウジ」だと思っていたのです。彼にはBaron Shibakojiを知る由もありません。ただ、人が「しばこうじさん」と呼んでいるのを、耳で聞いただけなのです。

さすがの芝小路さんも「むっ」とした表情を見せました。この夜はきわめて不愉快な夜となってしまいました。

これには主催者の長尾さんは参ってしまいました。2年後のパーティにはOZ SONSもゲストで呼ばれましたが、司会は鈴木治彦アナウンサーでした。ユーモアたっぷりの紹介をしてくれました。これは、気持ちよかったです。事前に私達にプロフィールをちゃんと聞いてメモを取っていました。名前のフリガナも間違うことありません。

  ◆ 


世良 譲(1932-2004)

もうひとつ、世良さんが亡くなって4ヵ月後に追悼コンサートが品川プリンスホテルで開かれました。世良さんにゆかりの深いミュージシャンが30人ほどステージに立ちました。OZ SONSは素人で唯一出演者に名を連らねました。

さて、この厳粛なメモリアル・コンサートに「牧何とか」いう司会の商売人が出てきました。

誰が彼を指名したのか全く存じませんが、よく喋る司会でした。どんどん時間が経ちます。ただでさえ次々とバンドが入れ替わりますから上手く進行してもらわないといけません。その進行役が一人でくちゃくちゃ喋りまくって、われわれの予定時間は約40分以上遅れてしまいました。

この男もバカ司会者の見本です。

  ◆ 

つい先日、沢村美司子の妹の沢村まみのイヤー・コンサートがありました。司会は鈴木治彦さんでした。さずがにまみちゃんはコンサートで一番重要なのは司会者だという事がわかっていたのでしょう。

司会者を決めることはパーティやコンサートを成功させるかどうかの分かれ道です。 (2011/6/8)


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