歌と歌手にまつわる話
Story of Songs and Singers

(250) Earl Hines ジャズピアノの父


Earl Hines(1903-1983)

ジャズ・ピアノの父と呼ばれたアール・ハインズはピッツバーグ生まれで、1925年にシカゴに出てルイ・アームストロングと仲良くなった。ハインズ21歳、ルイが24歳の時だった。そして、2人は共演し、ハインズは新しいジャズ・ピアノのスタイルを確立したのだという。

当時はジェリー・ロール・モートンやキング・オリバーがいた時代で、シカゴがジャズの都だった。
 


Louis Armstrong, Earl Hines and Billy Ekstine


Earl Hines Orchestra

1928年には、彼のビッグバンドには28人のミュージシャンを抱え、Grand Terrace Ballroomで毎夜ショーを繰り広げた。ジャズ・ライターのStanley Danceによると、「シカゴのGrand Terraceのハインズ楽団はニューヨークのCotton Clubのエリントン楽団に通ずる」と書いている。

こんなに大勢のミュジシャンや歌手、ダンサーを抱えていたのは、毎晩、3回のショーをこなし、日曜日は4回のショーと休みなしの「働き方なんとか」とは無縁の状態だったからだという。

Grand Terrace Ballroomから毎夜、ハインズ楽団の音楽が全米に放送されたのだそうだ。

Grand Terrace はアル・カポネの支配下にあったクラブで、ハインズは「カポネのMr. Piano Man」という立場となった。

ニューオリンズの売娼街ストーリービルで生まれたジャズが、シカゴに上りギャングの庇護をうけて育ったという図式がよく分かるでしょう。


Chicago The Grand Terrace Ballroom

ある日、カポネはハインズに「お前はおれが守ってやる。ただし、お前は”見ざる、聞かざる、言わざる”を通せ」と。ところが、1940年、突然Grand Terraceはクローズされ、マネージャーだったEd Foxは忽然と消えた。その後8年間、ハインズ楽団は全米中ツアーを続けたのだという。

カウント・ベイシーは「世界一のピアニストだ」と言った。そして、ハインズの一番大事な生徒はArt Tatumだったというのだから凄い。

1940年代になって、あのチャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーを雇い入れた。これはBe Bopの誕生のきっかけとなった。さらに、ピッツバーグの歌手、ビリー・エクスタイン、ナット・キング・コールもハインズ楽団にいたのだ。1943年、サラ・ボーンがアポロ劇場のアマチュア・コンテストで優勝し、ハインズ楽団に入ったが当時は2ndピアニストとして雇われた。すぐに正歌手地位を得ている。さらにさらに、Bill "Bojangles" Robinsonまで踊っていたのだ。

ビリーはバップの歌手になりたくて1944年にハインズ楽団から独立し、自らのバンドを立ち上げた。その時、妹同様に可愛がっていたサラ・ボーンも同行した。 ⇒ Passing Strangers

(2018/5/18)

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