MEMBERS
小島 恂(まこG)
KOJIMA Makoto
Baritone
Born in 1942
栗本滋雄(くりG)
KURIMOTO Shigeo
Bass
Born in 1946
清田 滋(きよG)
KIYOTA Shigeru
Tenor
Born in 1950
若山邦紘(わかG)
WAKAYAMA Kunihiro
Tenor
Born in 1941

大原江里子(えりちゃん)
O'HARA Eriko
Arranger, Piano

小針美矢子(ことり)
KOBARI Miyako
Manager

ミュージシャンのサイトでは、どこどこ大学出身とか、誰それに師事とか、個人情報など履歴書まがいの紹介が綿々と書かれています。わが国は経歴が大切で、何がうまいのか下手なのか中身をわかりやすく記述しない奇妙な国民性があります。人は経歴を見て勝手に想像するだけなのです。帝大卒でもピンからキリだと言うことくらいわかっていながら。

2004年4月に毎日新聞社に取材をされて、PLATAというタブロイド版に勤務先をばらされてしまいました。名刺交換などしたからです。まいった、まいった。

メンバーのプロフィール

まこG:某電2広告会社定年により現在は某電気紙芝居番組制作会社専務から顧問。それも2011年6月で退職した。学生時代は体育会水球部ゴールキーパー、コーラス歴ナシ。歌も人前では唄わず。ただし、ダークやグレイセスがまこGの父親にレッスンを受けるところを見聞していた。何と言っても、このグループの創設者、一番人望が厚い。なぜか?それは練習のたびに、コーヒーをみんなに買ってきてくれるから。4人の中で一番練習に熱心だ。ゴルフのハンデ8。沖縄はじめ地方のツアーコンダクター、タクシーの抜け道案内が特技。イベントのステマネはプロ。バランス感覚に優れ、お酒は強く乱れず。OZSONSのゴールキーパー。この間、モデムと無線ルーターの電源ケーブルを差さずに「サーバーにつながらない」といって、わかGがPCの往診に出かけた。典型的アナログ人間。

くりG:某丸くて赤い有名な商社より系列海運会社副社長を還暦で定年。現在は救命胴衣製作会社社長。学生時代は混声合唱団でコーラス活動豊富。英語音声学のゼミ出身で、Singer's Englishと言って誰よりも発音にウルサイ。某プロ・コーラスにも教えていた。浮気者でオージーサンズがありながら、のこのこ練習に出かけていく他のコーラスグループ、控えめに見積もっても3グループ半。会長までやっていた。そのくせオージーサンズにしがみついている。英語にウルサイにもかかわらず、歌詞を覚えないまま唄うという変な雑技を誇っていたが、いまや通用しなくなった。3年経っても自分のソロ曲を覚えられない。脳みそがカチカチになったのだろう。この世にお酒がなかったら死ぬ。

きよG:某LS有名コンビニ役員だったのだが、期待されて薬品販売会社常務に引っこ抜かれたが、何を思ったかスパッと辞めて学習塾の経営者で平日夜は忙しい。学生時代のコーラス歴ナシ。昔からソロでフェイクするのが大好き人間、譜面は読まず眺めるものと思っている。すべて耳と勘に頼る。4人の中では最も年が若く、したがって働き盛り、きよGの都合に合わせて練習日は休日しかやれなくなった。勝手に唄っていてコーラスになったらいいと、面白いことを考えている。マヌエラの開店以前からマヌエラの常連。誰も知らない歌手やグループのCDを掘り出してくるのが特技。時にはヒットがある。仕事では理論肌だが歌は感性。お酒は適度に気持ちよく。

わかG:某有名私立品行方正な大学の教授だったが、2011年3月70歳定年退職した。学生時代は音楽の勉強のために混声合唱団に籍を置き、中学・高校時代から歌える友人を家につれて来てはコーラスを口移しで無理やり教えていた。高じて大学でこれが専門だがオペレーションズ・リサーチを42年間も無理やり教えてきた。コーラス歴は永い。グループのレパートリーの一部はわかGのアレンジ。プロの専属アレンジャーの片腕になっているつもり。4パートを唄いこなす多重録音一人コーラスが特技。ものづくり、物書きを厭わずは本職だから。性格は粗忽だが音楽は緻密。お酒は何でもOKだがなめる程度。一時、血圧の薬で声帯に隙間が開いてしまった。バカな医者が言った。「加齢です」だと。

オージーサンズ一家は全員がタバコを止めない。カーメン・マックレーと同じだ。カーメンは肺気腫で唄えなくなった。2004年暮に、わかGは神の啓示により煙草を止めた。まこGもたばこは止めた。珍しい人でこの歳で声変わりをしている。低い声が出にくい。若い方の2人は煙草やめられそうに無い。

鈴木史子(おふみ)
SUZUKI Fumiko
Guest Vocal

プロ歌手、鈴木史子はOZSONSの専属ゲスト歌手で、OZSONSは鈴木史子の専属バックコーラスという関係。オージーサンズ一家の旅行には、トラを入れてでも、どこでも一緒に行く。ドーシー楽団のシナトラとパイドパイパース。いや、ジョー・スタッフォードか。軽井沢合宿も皆勤。まあ、家族みたいなもんです。

西尾始郎
NISHIO Shiro
Tenor
Born in 1951
Temporary Relief
普段は練習には参加ができない。それでも、最近でもないが2003年3月、世良譲のライブ応援のとき、北海道転勤中の清田が駆けつける前のセットではピンチヒッターを務めた。困ったときには「いやだ!」と言って出てきてくれる。創設メンバーの一人。

No.3時代にメンバーであった上山 隆(上山高史)は還暦を迎えサラリーマン生活を終えて、かつて子供時代、大学卒業間もない時代にそうであったように、またプロ歌手としてデビューしたのです。その時、コーラス人間くりGをメンバーに送り込みました。

一生に3回プロデビューした人は世界でも珍しいのではないでしょうか。歌はめちゃめちゃに上手いですし、永年の年輪が歌の説得力となって表れます。そんな歌い手も一度はわれわれのメンバーだったのです。

オージーサンズが形成されたのはグループNo.6の時代です。したがって、それ以前はオージーサンズの紀元前と呼んでもいいでしょう。No.6は自らを「おじさん合唱団」をもじって”OZ SOUNDS”と名乗ったときが一度だけあります。1997年、栗Gが海外転勤となり、さらに、西尾が業務多忙となり、やむなくメンバーから外れることになりました。そして、急遽、若Gが加わり3人で頑張ってきたのです。

1991年結成以来、延べ8人のメンバーが入れ替わりましたが、栗Gが海外駐在から帰国して、2001年4月にようやくカルテットに復帰しました。オージーサンズ紀元前のメンバーの中には「自分はオージーサンズのメンバーという意識はない」おじさんがいるかもしれませんが、ここにコーラス・グループが生まれた時代のメンバーとして名を連ねさせていただきます。

Era #
Members
Year Remarks

BO

No.1
小島、西尾、笠井、武田
1990.12
翌年湾岸戦争突入日が初練習
No.2
小島、西尾、笠井
1993
武田病気、お守役は大原に
No.3
小島、西尾、上山、清田
1996.6
 
No.4
小島、西尾、清田、栗本
1997
上山再々プロデビュー
No.5
小島、西尾、清田
1997.4
栗本台湾転勤(97-01)
.
No.6
小島、西尾、清田、若山
1997.7
西尾業務多忙練習不能
AO No.7
小島、清田、若山
1998.1
小島沖縄転勤(00-02)
No.8
小島、清田、若山、栗本
2001.4
清田札幌/仙台転勤(03-05)
注)BO:Before Ozsons  AO:Anno Ozsons

以下は 2002暮の出来事

オージーサンズのメンバーは、コーラスもソロも何でもやる人たちなのですが、一人だけ頑固にソロを歌いたがらないメンバーがいます。それは栗Gであります。

なぜなんでしょうね?それが、2002年の暮の清Gの誕生日に、ソロで唄えとマヌエラに集まった大勢の仲間から言われてしまいました。それでも頑固に唄わないのです。ところが、

「来年になったら歌う、1月7日に歌わなかったら皆に1万円ずつ払う」と言ってしまったのです。

さあ大変です。16人ばかり居たのです。1月7日(わかGの誕生会)に16万持って来るでしょうか?

どうなったか知りたいでしょ? そのテンマツは・・・