ご覧の通りスリーグレイセスに「ゲストで出ない?」と言われてやりました。1300人もお客さんがいました。気持ちよかったです。病みつきになりそうです。 オジサンたちはまさにグレちゃんに大ステージの上に初めて引っ張り出されてしまったのです。このコンサートのためにThe Oz Sonsというグループ名を用意したのです。それまでは「いつものおじさんコーラス」と言われていたのです。これって、いい名前じゃありません?洒落てると思うんだがなぁ・・・ このコンサートでダンディフォーという爺さんコーラスも一緒にゲストで出ました。自分達でセミプロと言っています。よく言うもんだ。日本青年館での面白い出来事。楽屋の控え室がダンディさんたちとお隣でした。声出しの練習を始めたようです。「いざ立て戦人よ」でした。壁に向かって歌っていました。 オジサンたちはどうしてたかって?4人で煙草吸ってましたよ。わっはっはっはっはのは・・ ■■■■■■■
リトルマヌエラは5年ごとに帝国ホテルの富士の間を借り切って記念パーティをやってきました。OZSONSの前身のグループが15周年パーティで歌ったのが最初です。 ■■■■■■■
鈴木史子が自分のコンサートに初めてコーラスを出し物にしました。自分達のThe LureというコーラスとOZSONSと8人の大合唱をやりました。
The Lureのメンバーは伊集加代、まきみちる、和田加代子、鈴木史子の4人、現在はこのグループは存在していない。 90年代後半、西麻布にINDIGOというピアノサロンがありました。われわれのコーラスのアレンジやピアノを専属で担当する大原江里子のお店です。1999年のクリスマス会でこの4人がサプライズで2曲歌いました。まきみちると鈴木史子が謀をめぐらしたのです。みちるチャンは始めは渡辺プロからデビューしたアイドル歌手でしたが、芸能界の水が合わず、スタジオミュージシャンとしての道を歩みました。伊集さんとワダカヨはスタジオミュージシャンのバリバリです。2年くらいはライブ活動をしていましたが解散しました。 ■■■■■■■
社会人のビッグバンドの東京都連があり、毎年、コンサートを開催しています。連盟の委員長の小浜賢治さんがOZSONSのホームページを見つけてお誘いがかかったものです。われわれはBig Wing Jazz Orchestraという委員長の率いるバンドのステージに立たせてもらいました。 ■■■■■■■
1999年2月に六本木界隈のライブハウスが「六本木ジャズクルージング」というイベントを開催することになりました。われわれもお手伝いをしました。パスポート(当時、1万円)を持っていくと、バードランド、ミスティ、リラキシン、オールオブミークラブ、ロスコスモス、インディゴの6店は1週間チャージは無料となります。 それぞれのお店の常連達がキップを沢山売りました。月曜から土曜まで各店選りすぐりの出演者を揃えて1週間やり続けました。面白かったですね。僕らは歌手を2人、峰純子と鈴木史子を連れて六本木の町をクルージングしました。変なおじさんたちです。 3年目のクルージングは、それぞれの店に篭らず俳優座に皆が集まり大コンサートを開きました。当然のようにプロ達に混じっておじさんたちは堂々と歌ってのけました。 ■■■■■■■
オージーサンズを大切にしてくれた世良さんが大病をしました。その復帰ライブが3月3,4,5,6日に開催されました。「みんなで応援に行きますよ」と言ったら、「揃ってくるなら歌いなさい」となり、素人の分際で世良さんのピアノ伴奏で歌いました。 ライブが終わって、楽屋で世良さんの3月10日の誕生祝をしてきました。 世良さんは翌2004年2月17日にガンが再発し亡くなってしまいました。一度は復帰し「ガンを子分にしてしまった世良譲」とどこかで書きました。10月にも同じクラブeXでライブがあり、またオジサンたちは歌いました。これが世良さんとの最後のステージでした。僕らにとっては忘れえぬ人です。 ■■■■■■■
ゲソGのマネージャーは藤原さんという私の中学時代からの1年後輩です。グレイセスのマネージもしています。そんな関係から「ゲソの気まぐれコンサート」に出ないかとお誘いが来ました。われわれのような男声コーラスははいて捨てるほどあるのですが、殆んどのグループが合唱団上がりのグループが多いのです。 合唱団で永年歌った人たちにはジャズのフィーリングは先ず無いといっていいでしょう。ジャズ独特のリズムも発声法もまるで違います。彼らにはそれが分かっていません。わかGの50年以上に亘るジャズコーラスの永い経験から断言できる事実なのです。それを藤原という男は見抜いているのです。 プロのコーラスグループを見てもらえばすぐ分かります。彼らは合唱団の枠から出ることはありません。ダークダックスしかり、ボニージャックスしかりです。かれらはロシア民謡や日本民謡を日本語で歌っていれば何の文句もありません。彼らは合唱団で合唱曲を歌って育ってきました。ジャズはフィーリングが違うのです。デュークがジャズコーラスをやるなんて言っている人がいますがそれも違います。彼らはGolden Gateの物真似から始まったので黒っぽく聞こえるかもしれませんが、ジャズは合いません。 藤原の下の名前は忠男というので2人の間では「忠G」「わかG」と呼び合っていますが、「OZSONSは貴重だ!」って本気で言っています。忠Gは正しい!実際、オジサンたちの2人は合唱なんて経験したことが無いジャズ好きオジサン、もう一人は合唱団上がりの合唱人間なのだが合唱で大成しなかったのと、ソロを取る機会が少ないパートなので使える。ただ、譜面を離すことができないという致命的欠陥がある。これは合唱人間のサガというものでしょう。そういう私は合唱団に入りベートーベンからモーツアルトまでオーケストラバックで歌っていましたが、それもジャズコーラスをやりたいが為の音楽基礎を勉強しようと思って数年間はクラシックの合唱を中心にやりました。 しかし、合唱のための発声法が染み付いてしまってちとやそっとじゃ取れなくなりました。ジャズをやるには悪い癖がついたのです。ジャズボーカルの第一人者で親友の沢田靖司のところに通ってクルーニング唱法を習ったのですが何年もかかって合唱団でついたシミを取ってもらいました。言いたかないけど、大変なことでした。今は合唱団のOBたちが一緒に歌おうといいますが、もう出来ません。 ゲソGに「俺達みたいなグループを使わないでも、募集すれば何でも初見で歌える上手なグループがいくらでも応募してくるのに」と言ったら、「お前達がやってくれればいいのだ」と言いました。ちゃんと分かっているのです。 気まぐれコンサートとはよく言ったもので、実際、本番にリハーサルでの打ち合わせと違うことを平気でやってしまうので驚いたのなんのって。そりゃ、いくら打ち合わせたって沢山の曲を歌うのですから、その場になったら忘れてしまいますよ。誰だって。 ゲソGもこの年の9月2日に帰らぬ人となりました。 ■■■■■■■
ストライドピアノを弾き、歌まで歌う松下電器(パナソニック)に勤めるお嬢さんがいます。今では奥さん。小川理子といいます。関西の本社にいたのですが、転勤で7年間東京に来ました。何と大学は私の後輩です。学科は彼女は電気工学でした。
マヌエラで月に一度ライブをやることになりOZSONSとは仲良くなりました。会社も太っ腹で彼女の音楽活動は会社に公認された活動でした。そんなライブ活動10年の節目にリサイタルをやることになり、OZSONSはお手伝いに行ったというわけ。 ■■■■■■■
まこGは沖縄に転勤でいた関係で沖縄で顔が広くなってしまいました。ここは日本プロゴルフ大会もやったことがあるゴルフ場です。名護市にあります。 ここの素晴らしいコテージの宿泊施設に泊めてもらい、ゴルフまでやらせてもらいクリスマスのライブをやってきました。都合、4回も沖縄ツアーをしました。 ライブが終わってブセナ・テラスという海岸のホテルに一杯のみに出かけました。クリスマスのイルミネーションも見られるということです。ラウンジでは大勢のお客さんが、那覇から来た女性ジャズ歌手のライブを聴きながら楽しんでいました。 まこGはホテルの支配人に掛け合って「私達はOZSONSというジャズコーラスだが、飛び入りで歌いましょうか?」って言ったら、何と歌ってよいということになりました。
いやー、バカ受けでした。お客さんはたまげました。支配人は「有難うございます」だって。 ■■■■■■■
戦前にフラタニティ・シンコペーターズという東京の学生を中心としたジャズバンドができました。その創始者が長尾正士さんです。戦後、オルフェアンズを結成し、その後ブルーコーツを結成した日本ジャズ界の草分け的存在のお爺ちゃまなのです。その長尾さんが1998年にオルフェアンズを再結成しました。 3グレイセスのハンコ(一番右で歌うソプラノ)は旧姓長尾です。長尾さんの姪です。したがって、オルフェアンズのパーティには3Gも込みで出演することになっています。 長尾さんの息子さんはわれわれのジャズ仲間でもあります。そんな雁字搦めの関係からオルフェアンズのパーティにゲストで呼ばれました。このときは、”Paper Doll”と”Day By Day”の2曲を歌ってきました。テナーサックスの芦田ヤスシさんは、われわれがミルスブラザースのPare Dollを歌うので、ものすごい勢いで喜んでくれました。今どき、Paper Dollなんて歌う歌手を見たことがありません。ミルスブラザースが初めて来日したときに、ニューラテンクォーターで芦田さんの率いるフルバンドが伴奏したのです。 ■■■■■■■
自分達でお膳立てしてライブをやったのは、このライブは初めてです。2回目は、翌年にマヌエラの夏枯れ対策に客集めで一度やりました。大セイコー! 回りはやればいいのにと思っているらしい。オジサンたちは珍しいグループです。 ■■■■■■■
次の年が25周年でまた帝国ホテルで大パーティをやらなきゃならないのに、大パーティをやってしまった。なぜやったのだろうね。最低1万5千円〜2万円はいただかないと足が出る。だから、毎年、毎年パーティをやります、なんて言うと、この店は何を考えているのだとなってしまう。 でも、やっちゃえば何とかなるもんだ。 ■■■■■■■
8月のマヌエラ夏枯れ対策をホントにやりました。満員になりましたよ。やっぱり、毎月ライブをやっているなんて言うグループとは違い、希少価値があるというものです。中田が泣いて喜びます。 ■■■■■■■
このパーティではOZSONSが鈴木史子を誘って一緒に歌うことにした。5人のコーラスアレンジが何曲か用意されているので心配はありません。 でも、新しい曲をやらないと古びてしまうぞー。 ■■■■■■■
去年の25周年のときに「また、やりたいね」と誰かが言った。その話を傍で聞いていたかつえちゃんが真に受けてウェスティンを予約してしまったんですよ。それで、5月にパーティやって「暮にまたやる」って言うと叱られそうだから、何とか4月まで延ばしてもらった。 キャンセルしたら、キャンセル料金たんまり取られてしまうもんな。 ■■■■■■■
これは2度目の横浜BarBarBarでのライブ。最初の時は史子さんが階段を踏み外してライブの前に腕の骨を折ってしまった。救急車でことりがついて病院に行った。OZSONSはリハーサルをやらねばならない。 大変なライブになりました。史子さんは添え木で包帯ぐるぐる巻き。それでも歌った。すごい歌手です。骨折して休まずにライブを務めた人の話って聞いたことありますか? ■■■■■■■
グレイセスが22年のブランクを経て復帰してから、98年に復帰後第1回のコンサートを開いたのだが、今回で10回目になった。プロデューサーの忠Gは「これで切りをつけるコンサートにしたい」といって、また、OZSONSを呼んでくれた。 バックは森寿男とブルーコーツでした。
前回出たときはくりGが台湾に服役中で居ない3人の時だったが、今回は4人でやった。グレイセスは3人のままだった。 ■■■■■■■
もりのいえが赤坂の店から神楽坂に移って丸5年、開店してから35年となった。もりのいえに出演するプロ・ミュージシャンや歌うお客様達が集って記念ライブをやることになった。日曜日の真昼間から夜まで延々とやり続けた。 ■■■■■■■
カナユニという老舗のジャズレストランが赤坂にある。カナユニの横田さんはOZSONSの鄙びたコーラスを気に入ってくれている。 一人だけ歌わずにボサーッとしている人がいる。おかしいなぁ?ベースの岡村紘志が「くりGが歌っていませんよ」って大原さんに言いつけている。 クリスマスディナーなんかにも歌いに行きました。われわれは素人だからギャラの代わりに、美味しいディナーが出ます。何でも好きな料理を注文できます。みんなサンビッツが好きです。 ■■■■■■■
鈴木史子の古いファンの先輩がいます。バスケットでは有名な方です。銀座の会員制クラブBRBでグディーズをフィーチャーしたパーティですが、OZ SONSにもお声がかかりました。2009年にも呼ばれました。 ■■■■■■■
2月にバレンタイン・ライブをやろうということになっていたのですが、メンバーの母親が亡くなってしまいました。それで3月遅れのバレンタインとなってしまいました。譜面にかじりついてはいけません。 譜面を見ながら歌うのは、合唱団の習慣です。薄物は暗譜しろなんて指揮者が言うことがありますが、組曲のような長いものは大体が譜面を持って歌います。一度だけ、六本木男声合唱団の10周年コンサートに呼ばれてサントリーホールに行ってきました。全員の前に譜面台が171台置いてありました。おったまげました。 ■■■■■■■
ここは銀座の会員制クラブであります。ここで時々イベントが開催されます。わかGは「ここで火が出たら焼け死ぬ」と言ってあまり好きくありません。皆さん、何かあったときは、ちっちゃなエレベーターでは駄目です。階段があるのですが、ひどいことにドアには「使用禁止」の張り紙があり、物置き場になっているようです。お客が一度にこの階段に殺到したら怖いです。 実は入り口と反対側に1つ裏通りに抜ける階段があります。普通の客は知りません。私はここに行くとその階段のドアが開くかどうかチェックしています。こんなところで死ぬわけにはいきましぇん。 ■■■■■■■
「大賀ホールで歌わないか?」って言われりゃ、誰だって「行く行く」となります。Lighthouse Orchestraが軽井沢でJazzコンサートをやっていますが、2008年はOZSONSが歌いに行きました。 一度歌っておけば、話の種になろうっていうもの。この日はコンサートが始まる直前に滝のような雨が降ってきた。屋根から流れ落ちる水が大賀ホールを水没させるくらいまで建物の回りは大水でした。 ■■■■■■■
3度目の横浜です。まだ譜面台が外せないのです。くりGの学生時代からのお友達の北GがBarBarBar1回目のライブの時に怒ったことがありました。「歌詞をちゃんと覚えろ!」 何とBassソロで”Sleepy Time Gal”という洒落た歌なのですが。この曲のアレンジは2003年にできています。 ■■■■■■■
北陸放送に社長で赴任して10年になる白石社長が主催するジャズパーティです。これで3度目ですが、東京からたくさんのマヌエラ軍団が金沢まで出かけていきます。 最初の時などはわかGは大変でした。文部省のお仕事があるので、パーティ当日の4時半に会議を抜け出し羽田までタクシーを飛ばして小松まで飛んでパーティで歌い、翌朝は始発の便で東京に帰ってくるという強行軍でした。バカとしか言いようがありません。 他のみんなはあっちこっち金沢観光して歩いて楽しんで帰ってきたのです。 ■■■■■■■
All of Me Clubの金城さんは古い付き合いですが、ライブをやるって言えば喜んでやらせてくれるのですが、黙って今まできました。が、史子さんが「おじさん一緒にやらない?」と言うので、1回だけやることにしました。 お客さんは一杯になりました。金城さんは月に1回でもやって欲しいのですが、やりだすときりがありません。
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チーム・ソルトンセサミという4人の有名人おばさんのグループがあります。小室知子、加藤タキ、飯野晴子、中尾ミエの4人です。 頭に白いものが混じる年齢ですが、髪の毛染めをしないということが看板のおば様たちです。 ホテルオークラの平安の間に600人のお客様を集めてチャリティ・パーティをやりました。 ■■■■■■■
ライトハウス・オーケストラは1999年に結成され、10周年を迎えました。 ■■■■■■■
また、カナユニに呼ばれました。珍しく白い上着など着ています。これ、ユニクロだっけ?まこGの従兄、佐々さんが「何で譜面を置くのだ」とまこGに苦言を呈しました。 ■■■■■■■
ピアノの大原江里子のもとでコーラスをやるおばさん、Shoe Creamsはめんばーが還暦になると記念ライブを開いています。この年も還暦になるメンバーがいます。 それで、OZSONSをゲストに呼んでくれました。 ■■■■■■■
ソルトンセサミのパーティです。「今年もやるわよ」と言うわけ。平安の間では食べ物が10分でなくなりました。くりGだけが早く食べ物を取りに行ってありついたのですが、私は並んでいるうちに食べ物がなくなりました。ボーイに待っていれば運んでくるのかを聞きました。 答は「No」でした。急いで出演者の控えの部屋にある折弁を食べました。 そこで、今年はオープンしたてのXEX日本橋で開催となりました。去年のことを知っている人は、今年はどうなるか心配だったことでしょう。
中尾ミエはSatin Doll、おじさんたちはUntil I Met Youを掛け合いで歌いました。
タキさんはYou Belong To Meを歌ったのですが、これだけの人前でデビューということでした。私の家で2回練習をしました。練習用の教材などを作ってあげましたが、忙しい人なのによく勉強してくれました。 堂々と歌っているでしょ? ■■■■■■■
もりのいえにOZ SONS、SHOE CREAMS、MANUELA SISTERSがコーラス・ライブをやりました。 ■■■■■■■
マヌエラが30周年になりました。5年ごとに帝国ホテルで大パーティを開催してきましたが、今年は330名の客様が参加しました。 ■■■■■■■
鈴木史子の長男龍史朗が結婚しました。もう40うん歳になったといいます。お嫁さんは30歳で若いです。お祝いにOZSONSとGoodiesがコーラスのプレゼントをしました。 ■■■■■■■
FJSも結成して10年になりました。この合唱団のお守りをしてきたのは、わかG(director)とくりG(coductor)です。初めてOZSONSが飛び入りで2曲歌いました。FJSの皆さんもお客さんもびっくり仰天の巻でした。 ⇒ Female Jazz Singers Official Site ■■■■■■■
世良さんが亡くなって8年半が過ぎました。久しぶりに世良さんに捧げて歌ってきました。 ■■■■■■■
わかGの菩提寺では毎年10月最終日曜に親鸞上人の年回忌の集まりがあります。堅苦しいことでは檀家が集まってきません。そこで住職は昼食の後にアトラクションをやることを考えました。昨年はクラシックピアノでしたし、落語の年もあります。 今年はOZ SONSに歌えと言います。お寺の本堂で歌うのは小島家のお母様の通夜の霊前でDreamを歌ったことがありますが、今回は2set、OZ一家の史子さんも当然のように参加、しかも間にマヌエラシスターズの3曲も挟んで大サービスしてきました。 集まる檀家は総じて年配者です。われわれはできるだけその年代の人たちに馴染みの深い曲を選んで歌いました。当然のことながら楽しんでいただけたようです。 マイク無しの生声で人様の前で歌うのは珍しいことです。お寺ならではです。 ■■■■■■■ |