年頭の一枚 2015

パルテノン神殿 (アテネ・ギリシャ)
Parthenon (Athens Greece)


Parthenon=Hall of Virgin God

ギリシャのアテネでオペレーションズ・リサーチの国際学会(IFORS)が1990年6月に開かれた。3年に1度の世界大会だ。この時の日本からの参加は松田武彦団長を含めて25名だった。

遠足日にはエーゲ海クルーズに出かけたが甲板の上でA.チャーンズ大先生(テキサス大)と一緒になり話をしたのがいい思い出だ。チャーンズ先生にはこの時初めてお会いした。珍しく学会に出てきていたのだった。チャーンズ爺ちゃんは2年後の92年に75歳で亡くなってしまった。


A. Charnes, 1990


原野秀永,1990
私が社会人になるのを待ち構えていたOR学会の要人がいた。当時、東芝の主幹(課長とか部長というものでない特別の職位)であった原野秀永氏だった。私が学生時代に東芝の委託研究を手伝ったことが縁の始まり。1969年4月早々だったか、「おい若山、学会の理事会をやるから書記をやりに新宿の中村屋まで来い」であった。その時原野さんは庶務理事だった。即、日本OR学会の庶務幹事にさせられてしまった。

原野さんは昭和18年阪大電気工学科卒業、東京電気入社と同時に海軍で技術学生、技術中尉を経て、終戦時は技術大尉だった。筋金入りの親父だった。

その後、原野さんとは学会の運営の仕事を一緒にやってきたが、40代になって各種の理事職を次々とやらされ、学会事務局には入りびたりの日々だった。80年代に国際関係の仕事をやらされるようになり、国際学会への代表団の派遣という事業はわたしが取り仕切ることになった。1971年にアメリカに会計情報システムの視察団派遣を小笠原先生、川瀬先生の下でお手伝いすることで、海外派遣業務の手順や手紙の書き方を覚えた。

国際会議関連の最初の仕事は1984年のワシントンD.C.でのIFORS会議代表団派遣、その時から始まったOR学会アジア・太平洋連合の立ち上げ、南米初となった87年アルゼンチン、ブエノスアイレスのIFOS会議、88年韓国ソウルでの第1回APORS(Asian-Pacific Operational Research Societies)国際会議、90年IFORSアテネ大会、91年APORS北京大会、93年IFORSポルトガル・リスボン大会、94年APORS福岡大会実施、96年IFORSカナダ・バンクーバー大会、97年APORSメルボルン大会、まで私がすべて代表団派遣事業の企画・運営をやってきた。

IFORS大会にはチャーンズ先生だけではなく、われわれが読まされた教科書を書いた大先生たちと顔見知りになり、その後の手紙のやり取りなどし、3年後にまたIFORSで出会うのが楽しみだった。そういう大先生達がいつまでも生きているわけではない。年もとり出てこられなくなる。というわけで、だんだん寂しい思いをするようになってきた。そんなわけで、2回ほどお休みしていたが、2002年のIFORSエジンバラ大会では団長に奉られて参加した。もう、レジェンドはSaul Gass先生だけになってしまった。つぎのハワイ大会は行く気がしなくなっていた。

さて、当時の「年頭の一枚」 はプリントごっこという玩具の謄写版を使って作成した。こんな図柄である。1991年の年賀状のために描いたものである。

プリントごっこではあまり精密な絵は苦手である。色の使い方もシンプルなものしかできない。94年からキヤノンのコピー機を仕入れて葉書をコピー印刷できるようになった。細かい線を描いてもそのままコピーできる。当時のパソコン用のプリンターはドットプリンターでペンで書くような細い線は印刷できなかったのである。

いろいろな事務用品が自宅で揃えられるようになり、細かい仕事が始まったのである。

パルテノン神殿のアップした写真が出てきた。珍しく同じ場所を描き直してみた。まず、Pentelの細いサインペンで線画から描く。

原画(A4版) Pentel 筆文字サインペン

これに絵の具で色をつける。そうやって冒頭のパルテノン神殿が出来上がる。空のグラデーションはパソコンで簡単に作れる。それを後ろのレイヤーに置けばよい。

ギリシャの民族楽器にブズーキというマンドリンに近い楽器がある。アクロポリスの真下にプラカ地区と呼ばれる小さな店の立ち並ぶ商店街があったり、夏などはライブを屋上で聞かせるタベルナがあったり楽しめる場所である。


Bouzouki


Greek Band

何を演奏していたかって?ソフィア・ローレンの”Never On Sunday”ですよ。知っている人、それは爺さんか婆さんだよ。1960年のギリシャ映画ですよ。