ジャズと小噺 Jazz and Topics |
(62) ライブハウスB flatも満20周年 | |
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1998年に原宿にキーノートというライブハウスが出来て、Dolly Bakerも月一くらいで歌っていました。何かのトラブルで、あっという間に閉店になってしまい、オーナーの杉谷宏幸さんは鈴木耀さんの助けを借りて、2001年3月に赤坂のB flatをオープンしました。鈴木さんが代表となり、杉谷さんが総支配人として店の運営を任されました。 |
この場所には70年代の初めから、コルドン・ブルーという高級レストラン・シアターがありました。一晩行くと、G万取られるとか。私は名前だけ、まこGから聞いていただけでした。 |
私が最初に出かけたのはJanet Seidelの初来日だったと思います。もんプロの西蔭嘉樹さんのプロモートでした。わたしはジャネットとすぐに仲良くなりました。メールのやり取りも日常となりました。Blossom Dearieのような素晴らしい弾き語りをしてくれるのですが、当時、日本では名前が売れていないせいか、お客の入りは今一つだったようです。 西蔭さんは「俺は儲からない人ばかり招んでいるよな」 Janetのユニットは、実兄でベースのDavidとギターのChuck Morganの3人でしたが、日本ではドラムに八城邦義君と決まっていました。 |
西蔭嘉樹 |
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この時代はよかったです。毎年、Janetは西蔭さんに呼ばれて歌いに来ました。が、2017年11月に63歳で死去しました。Davidが知らせてきました。2013年に横浜Faroutに会いに行ったのが最後でした。
ジャズメッセンジャースのピアノ、John Hicksは90年代からの付き合いでしたが、2002年春にSony Fortuneカルテットのトラで2晩ライブがありました。杉谷さんの知らせで会いに行きました。私のテーブルでさんざん話して、私が「一杯飲むか?」に「後でだ」とつまみをぼりぼり食べて、ステージに上りました。その時の写真ではありませんが、二人で人の知らない歌をやっているところです。
John Hicksも早く死にました。2006年に65歳でした。
Four Freshmen#22が西蔭さんに呼ばれてB-flatでライブがありました。この連中はわかGの息子同然の年代で、マヌエラで歓迎会も開いてやりました。Bob Ferreiraは唯一人、現在もメンバーとして歌っていますが、そろそろ30年になります。FF#22は、オリジナルのFour Freshmenに劣らぬ唯一のグループと言えます。
この翌月、Starlight Junctionのライブを仕掛けました。どんどん上手くなり、わかGが応援団長でライブ開催も面倒見ました。丁度、100人入りました。
大阪に居た Harvey Thompsonが、同郷デトロイトのJo Thompsonの来日に合わせて初めて東京に呼ばれました。2003年のことでした。杉谷さんが聴かせたいライブの連絡をしてくるのです。私とはよく話が合いました。好みも共通でした。もともとは証券会社のに勤めていたのです。
次に上京したのは、♯&♭のマイク・プライスがハービーを呼び、All of Me Clubでライブがありました。家内と出かけました。何ともお客がいないのです。遅くなって酔っぱらった池野さんが立ち寄っただけです。東京人はHarvey Thompsonなんて誰も知らなかったのです。金城さんは2度とハービーを呼んでいません。よし、歌は素晴らしいから宣伝してAll of Me Clubの目玉にしようと思わなかったのです。 わかG1人が応援団でした。わかGの書いたHarveyのページはよく検索で見られるようになりました。マヌエラで何度もスペシャル・ライブを開催しました。ファンが詰めかけるようになりました。
Creg Thompsonというダラスの新進歌手がいました。まだ、38歳の頃です。日本でライブやパーティがやりたいというので、2003年4月に、私がプロデュースし銀座モンテカルロでパーティ、赤坂B flatでライブの開催。杉谷さんは立派なアーティストだと喜んでくれました。
何ということか、クレッグは2018年に53歳で死にました。 2003年11月に、西蔭さんは「ジャズジャイアンツの素顔」という本を出版しました。B flatで出版記念のパーティがあり、私も招待されて出席しました。 この本の扉をめくると、サインがしてありました。不思議な縁でしたねぇ。
私がB-flatに行くと、必ず一番後ろの記者席のど真ん中が指定席でした。杉谷さんの決めたことです。 その特別席に座っていた時のことです。隣に座ったオジサンが「爵士楽堂主人のホームページに・・・」と言います。「私が、その爵士楽堂主人です」ってんで驚いたのなんのって。 オージーサンズの初ライブも此処であったのですよ。
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自分たちはアマチュアというスタンスのOZ SONSは、ライブ開催は、1997年にこのメンバーになって以来していませんでした。2004年になって、初ライブをB flatで開催しました。スリー・グレイセス、鈴木史子、Big Wing Jazz Orchestra、笈田敏夫、世良 譲らにはコンサートにゲストで呼ばれて、大舞台では歌って来たのに、中々自主ライブをしないグループでした。杉谷さんは大喜びで箱貸ししてくれました。チケット150枚が完売でした。 ⇒ チラシ拡大 |
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2005年11月9日に突然、杉谷さんが亡くなりました。心臓発作で救急搬送の途中で死亡とのことです。 その後、鈴木代表が杉谷さんの代わりにお店を運営することになりました。西蔭さんもB flatで会うことがなくなり、ライブの内容もすっかり変わってきました。2009年には西蔭さんも亡くなりました。 杉谷さんが取り仕切っている時代は、実力派の外人アーテスト中心のプログラムでしたが、鈴木さんになってからは、日本人のミュージシャン・バンドの番組が主となりました。 1999年に六本木All Of Me Clubの金城さんの発案、私がHomepage作成の応援で始めた「六本木ジャズ・クルージング」も、2010年代になって港区が「Sound Cruising MINATO」というイベントを起こし、範囲が広くなりました。コロナ元年から中止になってます。 FJS女声ジャズ合唱団は2002年に結成され、現在も続いています。2014年のクルージングには、金城さんに呼ばれて久し振りにFJSが出演しました。その会場が、B flatでした。私が音楽監督で引率者なのですが、店主の鈴木さんは、ろくな挨拶もありません。「俺がFJSを呼んだんじゃないから・・・」てな涼しい顔しています。変なおじさんです。
FJS生みの親、金城さんも2019年11月22日未明、店の帰りに自宅前の植え込みに倒れたまま、突然死しました。脳溢血でした。3回に分けて「偲ぶ会」が開かれました。 その後、2018年にはマヌエラのお客様のコンサートを企画しました。
こんな太いパイプでB-flatと繋がってきたわかGですが、鈴木さんは余所よそしい素振りを続け現在に至っています。珍しいおじさんです。 一昨日書いた稿で、西蔭さんのこと、杉谷さんの話がチラリと出てきて、あらためて、この稿を起こしているところです。先月、3月初めに20周年記念のビッグバンド・ライブを何日かやっていましたが、杉谷さんが生きていたらご招待があるのになと思いつつ・・・ B-flatは20年の歴史の中で、あまりにも変わってしまいました。そんなわけで、懐かしい杉谷さんの顔が浮かんできて「何か古いこと書いてくれぇ」って聞こえてきました。 (2021/4/30)
B-flatのオーナー、鈴木 耀さんが2022年9月1日に交通事故のため亡くなりました。R.I.P. 今年中は営業するらしいです。(2022/9) |
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1年振りにB Flatを検索しました。 山野楽器が買収しました ⇒ HomePage
昔の杉谷さんの時代は面白い店でした。 新しいB Flatは面白くなさそうです。行くことは無いと思います。 (2023/10/13) それが、行きました。歌わされました。 ⇒ B-Flatにて (2024/6/28) |