ジャズと歴史にまつわる話
History of Jazz

懐かしのambe

60年代の中頃、爵士楽堂がまだ学生時代の話です。高校1,2年の時の同級生、それも当時の地下鉄・・・今の銀座線で渋谷経由で日吉に通う学友が神田駅近くに見つけたバー・ambeがあった。私を連れて行ったのは、熱海と伴だった。二人は上野に住んでいた。

他所のバーと違っていたのは、音楽を聴かせる珍しい店だった。ギター弾きの流しがambeにも巡って来た。客の伴奏もしてくれた。

80年代、90年代にはライブハウスと呼ばれる生の音楽を聞かせる飲み屋が出来てきたが、当時は音楽を聴かせるバーといえば、レコードを聴かせる店に限られていた。ランブル、デュエット等。生演奏はジャズ喫茶と呼ばれたアシベ、テネシー、プリンス、タクト等。シャンソン喫茶は銀巴里だった。バーとか酒場ではなかったのです。だから、高校生でも入れました。戸川昌子の青い部屋はバーでしたね。

ambeでは、カウンターの中でトリオ・ロス・パンチョスよろしく、マスターの萩原 節さんがラテン・トリオを聴かせてくれた。萩原さんは、ロス・インディオスの初代のリーダーである。

70年代半ば、若山ゼミの学生たちの卒業式・祝賀会の後の2次会に、神田のambeに連れて行ったことがある。憶えてるやつがいるかなぁ・・・?? 

その後、ambeが赤坂に引っ越して来ていることが分かり尋ねて行った。80年代から90年代に入る頃だった。昔のバーではなく、メキシコ料理を食べさせる広いライブハウスに様変わりしていた。萩原さんは、メキシコに出掛けては、トリオを探して連れてきて歌わせていた。あのパンチョスもディアマンテスもambeにやって来たのだ。


ambe


店内


Los Tres Diamantes at NUEVO ambe

しかし、90年代に入るとメキシコにもトリオが居なくなってきたと、萩原さんは嘆いて話してくれた。マリアッチ・バンドが主流になってきたのだった。いつも、お店の勘定は優しいお母さんが仕切ってくれた。何とも家族的なお店だった。

2000年代に入って奇遇だったのは、我が家の菩提寺の住職の妹がラテン歌手になった。いつも、呼ばれて聴きに行ったが、珍しや大きなイベントがambeで開催されたことがあった。


萩原 節

長い長い歴史をもつambeも、2018年1月24日に萩原 節さんが亡くなった。その後も、店は営業していたが、コロナ騒動が起きて、やっていけなくなったようです。2021年6月に閉店しました。 

(2022/04/26)

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